久々知編2


(な、ん……だ……?)

知らない香が漂う部屋で、久々知は目を覚ました。
上質でふかふかな手触りの布団に久々知は包まっていた。襖一面に描かれた美しい大輪の花が、隙間から入る朝焼けの光を受けて真っ赤に染まっている。普段久々知が眠っている自室とはまるで違う場所。
布団の温かさで寝ぼける頭では、上手く情報が巡らない。

(そうだ、ここは……)
「気がつきんしたかえ?」
「?!」

大人の女の声に、久々知は目を見開いてぐるりと身体を反転させる。乱れた黒髪が視界を覆うが、温かく優しい手つきでその髪を丁寧に払われた。視界が良好になると、久々知の黒目は紅の引かれた唇が微笑むのを捉えた。そこで久々知はようやく自分が膝枕をされている事に気付いたのである。柔らかい枕は女郎の膝で、自分の髪を払ってくれたのはこの女郎―――であった。
咄嗟に起き上ろうとすれば、が久々知の肌蹴た肩をやんわりと押す。

「まだ起きずとも大丈夫でありんす」
「しかし……」
「あちきが支払いんしたから、気にしなくても大丈夫でありんすよ」

焦ったような久々知にはにこりと微笑んだ。
どうやら久々知は、と肌を重ねた後、深い眠りについてしまったらしい。
ようやく久々知は昨晩の事を思い出し、自分の失態に対して深い溜息を吐くと、から視線を逸らした。

「起こしてくれて良かったんですよ」

は久々知の癖のある長い髪を撫でつけながら、夜と変わらない感情の読めない笑顔で答えた。

「あちきがそうしたいと思いんしまででおす」
「それなら、支払いはオレがします」
「いいえ。起こさずにそう判断したのはあちきでありんすから」
(何だこの女は……)

久々知はに対して不信感が募った。
女郎の金は、文字通り身体を張って手に入れたものだ。花魁のように客を選ぶ側ではない散茶の女郎からすれば、血反吐が出るようにして得た金である。散茶の位であるは、花魁たちよりも給料が低い。そんな金を、一晩寝ただけの客に使うなど、久々知には理解出来なかった。
何を考えているのかがわからない。諜報が中心となる久々知たち忍者にとって、こんなにやりにくい人間はいないだろう。

「随分お疲れのようでありんしたね。あの後直ぐに寝入ってしまわれて」
「…………」

言われてみれば、ここのところ久々知は実習続きで夜もゆっくりと休む事が出来ていなかった。今こうしての膝から出られず身を任せているのも、そのせいだろう。普段ならば強引にでも部屋を後にしている。

(確かに疲れていたのかもしれない。身体全体が重く感じる)
「おわしも、卑しいあちきに使うくらいなら、主様に使う方が喜ぶ事でありんしょう」
「…………わかりました。でも、代わりに何かさせてください。そうじゃないと、オレの気が済みませんから」

女郎に貸しが出来てしまうなど、屈辱的に感じてならなかった。

「…………」

ふと、の動きが止まった。
予想外のの態度に、久々知は思わず視線をに戻した。乱れた漆黒が肩にかかり、朝焼けに照らされている白い頬は陶器の様だ。夜に感じた妖艶な美しさとはまた違う姿に、久々知はまたしても視線を逸らしてしまう。
はてっきり笑っているのだとばかり思っていたが、久々知の視界に入ったときのは、真顔であった。

(何を動揺しているんだオレは……。ただの遊女の気まぐれだっていうのに)

心を鎮めようとしたとき、はようやく口を開いた。

「それなら……1つだけ」
「何です?」
「あちきに、その顔を良く見せておくんなんし」
「は?」

思わず間抜けな声が出てしまい、を見れば普段と変わらない笑みを浮かべている。人をからかうみたいな、そんな顔だ。

「それで、あちきは満足でありんすえ」

部屋に支払った金を、ただ顔を見せるだけで済ませるのは、どう考えても割に合わない話だ。

(オレを起こさず、部屋の支払いをしたのはオレに恩を着せるためか。支払いをオレに要求せず、その程度の事で済ませようとしているのも、きっとオレに馴染みの客になって欲しいからだろう)

女郎は顧客を増やしていかなければ食べていけない。花魁でもない限りは、そうせずに遊廓で生きていけない定めにある。
それを考慮しても、久々知には遊女に対する不信感や不快感は消えなかった。





いったいなぜオレの方を見ているんです?





あははは、坊やが可愛いからでしょ。






(ああ……そんな事も言っていたな)

ギリッと奥歯を噛んだ。
だが、が代金を払った事には間違いない。久々知はの要求に頷いて瞳を閉じた。

「好きなだけ見てください。それでお礼になるんだったら、構いません」
「そうでおすか。ありがとうおざんす、兵助様」

は久々知の許可に対して目を細める。
細められた漆黒は、瞼を閉じている久々知には映らない。





だから、久々知は知らなかった。





彼女が今、どのような顔をしているのか、を。





















遊廓周辺の情報を集め、いよいよ久々知はが身を置く華屋における人の出入りを本格的に調査し始めた。
昼間は遊廓で下働きを妓夫するに変装し、夜は客として直接潜入した。
暗殺する上での条件は、事故に見せかけて殺す事。遊女が他殺されるのはあまりにも不自然なので、その件については納得出来る。しかし、なぜ遊女なのか?という疑問は残されたままだった。

(余計な事は考えなくても良い……。オレは依頼を遂行するまでだ)

久々知は見世の裏口から妓夫の姿に変装し、華屋へ侵入した。一瞬だけの変装なので人の目に留まる事も無い。着替えも各段と早く済む。
客の姿に手早く着替えると、天井裏へ身を潜める。天井板の隙間から零れる女郎屋の中は、相変わらず夢の中のような光景が広がっていた。しかし、久々知からすると、金と女が入り混じる滑稽なものにしか見えなかった。

(天井裏から侵入する道筋を確保しないとな)

久々知はなるべく音を立てないようにしながら、薄暗い天井裏を進んだ。とは言っても、見世の内部が明るいため、照明は一切必要としない。それに多少音を立ててしまっても、人の話し声や楽器の演奏の音で誤魔化す事が出来るだろう。それでも音を消して進むのは久々知の真面目さ故だった。

(あの人の部屋は、確かもう少し奥の方だったな……)

三味線の軽快な音や宴会の賑やかな方から少し遠ざかった辺りで、久々知はそっと耳を天井板に当てる。

「あ……っ……あ、ん……んっ、あああぁっ!」

僅かだったが、艶やかに喘ぐ女の声が聞こえてきた。それは間違いなくの声である。情事の最中にあるらしく、男の荒い息までも僅かだが耳に入った。

(妙なときに居合わせてしまったな)

久々知は胸の内がジリジリと焼けるように感じた。しかし、これも仕事である。両手をついて、そっと天井板の隙間から目を凝らした。
蝋燭の薄明かりの中で、男女が絡み合っている。は美しい着物と髪を乱れさせ、男の下で必死に相手の手を握り締めている。そして、男は仰向けになっているの豊満な肢体に覆い被さり、腰を突き動かしている。
はまるで愛しい想い人にでも抱かれているかのような、とろけた表情で男を見上げていた。頬を赤く染めて、額から珠のような汗を流していた。
そこまではいつも通りだった。けれども、久々知は男の方に視線を合わせて思わず目を見開いた。

(何だ、この男の姿は……?!)

30代と思われる男の身体中に、醜い斑点が無数に刻まれている。腕や足だけでなく、背中や腹、胸に至るまで痘痕だらけなのだ。特に酷いのは顔で、左半分は元がどんな姿だったのかわからないほどだった。

(全身にあばた……。特に顔が酷い。天然痘か)

天然痘といえば、不治の病と恐れられている、高い致死率の病気だ。男は回復したようだが、病魔の爪痕は全身に残され、醜い姿を晒している。
こうなるとどんな大名でも人目を避け、そして人々から避けられてしまう運命にある。
それでも、男の下で快楽を感じているは、嫌な顔1つ見せずに男を愛しそうに抱き締めていた。柔らかく白い肢体で男を包み込んでいるではないか。

「う……、うぅ……ッ!ひっく……ぁあ………っ!」

男は泣いていた。声を押し殺しながら、の身体に自分の全てをぶつけているように動く。汗が飛び散り、熱い息が男の苦しみと一緒に吐き出される。
その間、はただ黙って微笑みを絶やさず、男に寄り添っていた。
久々知には、男が自分の置かれた状況を悲しんで泣いているだけではないと感じた。が男の背中に腕を回して抱き締めると、男はしがみ付く様に抱き返して口付けるのだ。の鮮やかな紅が取れるほど激しい口付けは、貪る様にを欲している。もまたそれに応え、口付けを続ける。そして口付けを終えると、男の不気味とさえ呼べるような痘痕を優しく撫でた。
久々知はこの空間を壊してはならないと悟り、静かにその場を離れた。そして再び外に出ると、何食わぬ顔をして妓夫に誘われるまま華屋の暖簾を潜った。

「あら、坊やまた来てくれたのね」
「どうも……」
「今夜もまたかしら?」
「えっと―――」

久々知がどう答えようか迷っていたとき、人々がざわざわと声を低くして耳打ちし合った。何事かと思い、久々知が人々の見ている方を向けば、を抱いていたあの客が、出口に向かって歩いてくるではないか。しかも醜いあばただらけの顔は、一切隠さずに、だ。人々から好奇の目で見られているというのに、男は不安を全て振り切り、満足げな笑みさえ浮かべているではないか。これには遣手も驚いているらしく、久々知と同じように凝視してしまった。

「あの……、あの人は?」

久々知は一番聞きたかった事を訊ねた。

「あ、ああ……。あの方は大名の跡取り息子。噂だと、可愛いお姫様と昔婚約してたらしいんだけどさ、天然痘であの姿になってから破棄されちまったっていう話だよ。城でも常に姿を隠して生活してるとか……。女ばかりで生まれた待望の跡取りだっていうのにね。可哀想な事だよ」

やはりあの客も自分の醜さを隠そうとしていたようだ。言葉では表せないほど、虐げられてきたに違いない。

「でも、驚いたねぇ」
「何がですか?」
「だって、ここへ来たときは覆面をして顔を隠していたんだもの。あんなに堂々と人目を気にせず歩いてくるとはねぇ……」

客は暗雲を振り払い、雲一つない青空にでも出て来たかのように穏やかな顔で久々知の横を通り過ぎ、店の外へ出て行った。客が通り過ぎたとき、あの部屋の匂いがした。

「位の高い花魁はあの方を絶対に拒否するだろうし、格下の女郎だって出来る事なら拒みたいだろうよ。でもね、はそういう客も全て受け入れる子なんだよ。だからきっと、あの方もそれでご指名されたんだろうね」
「どんな客でも……」

久々知は、が演技では無く、本当に男を受け入れている姿を見ている。いや、演技でもあのようなことを易々と出来るわけがなかった。
久々知の顔を見せて欲しいと言っていたときも、同じように笑顔だった事を思い出した。

「……あの、オレ今日は帰ります」
「え……?そうかい?また来ておくれよ」

久々知は一礼だけを残し、見世を出た。
茜色の柔らかな提灯がズラリと並ぶ道には、色めきたった男たちが格子を覗き込んでいる。どの女をその腕に抱こうか、卑しい考えを巡らせているのだろう。それは変わらない。けれども久々知はその日の遊廓はいつもと違って見えた。
間違いなく、のせいで。