夜の遊廓に訪れるのもどうにか慣れてきたらしく、竹谷はこの赤い提灯が連なる幻想的な光景を眺めながら歩いた。しかし、真っ赤な格子越しに男たちの視線を奪おうとする女郎たちを見ると、胸の中がもやもやとする。と格子に商品のように並ぶ女郎たちが重なって見え、余計に心が乱れた。
(の旦那になる事は、本当にを護る事に繋がっているのか……?)
華屋の前にやって来ると、妓夫が出迎えてくれる。遣手は既に竹谷を常連客と認めたようで、直ぐに『おあがりんなるよー!』と掛け声を見世の中に響かせた。それが少々恥ずかしく思えて、竹谷は肩を窄めて見世の暖簾を潜った。
部屋へと案内をする遣手に、竹谷は問いかけた。
「今、楼主はいますか?」
「ここのところ別の御大名様と色々話し合っているみたいでね。少しの間留守にしているんだよ」
「そうですか……」
に身請けの話を持ち掛けて了承を得たが、の所有者である楼主に承諾を得なければ意味が無い。この遊廓においては、楼主の権限は絶対で、金の無い客は一切逆らう事は出来ない。竹谷も金の無い客の1人だが、彼の背後には忍術学園という組織がある。その信用を盾にして交渉をするしかない。
部屋に通されると、既にが朱色の敷物の上に座っていた。きっちりと天神髷に結い上げられている黒髪が、煌びやかな着物の袷が、これから自分の手で乱れるのだ。そう考えると、竹谷は背筋がぞくりと震えた。
は柔らかな灯りに照らされている口元を弧にして竹谷を迎え入れる。
「こんばんは、八左ヱ門様」
いつ見ても、の笑顔は艶やかな牡丹のように美しい。何度見ても、頬が赤くなる事は避けられない。
竹谷はの正面に座って同じ目線でを見た。
「こんばんは。今日も良い夜だな」
「そうでおすね」
今夜は満月で、空を見上げると白く輝く月が地上を照らし出している。忍者にとって満月はやっかいなものだが、と会う時に満月なのは嬉しい。
暫くの間、学園の授業の事や委員会でまた毒虫が逃げ出した事など、他愛も無い会話が続いた。竹谷の話す事はどれも新鮮に感じるらしく、は時折ころころと鈴のような声で笑った。楽しい話をしていると、高価な酒や料理が益々美味しく感じられる。
会話が切りの良いところで途切れると、は口元にそっと手を当てて言う。
「主様はあちきの旦那様になるというのに、いつも離れたところに座りんすね」
「えっ?ああ……つい、な」
「まだ慣れねぇだすかえ?」
竹谷は人見知りする方ではない。むしろ、知り合った人間とは直ぐに親しくなれるタイプだった。けれどもの前だとなぜか緊張が高まってしまい、無意識ながら距離を取ってしまう。
別に嫌っているわけではない、という事はも理解している。けれども何て説明すれば良いのかがわからず竹谷は『あー』だとか『うぅ……』と言葉を濁らせた。は竹谷に近づくと形の良い指を竹谷の顎に滑らせる。はたとの黒曜石と視線がぶつかり、竹谷は目を見開いた。
「一つ質問をしてもよろしいでありんしょうか?」
「何だ?」
「八左ヱ門様は、なぜあちきをこんなにも気にかけてくださるのでありんすか?」
「それは……」
の問いかけに竹谷は何と返せば良いかわからなくなった。
には世話になった恩がある。だが、それはもう贈り物という形で返している。竹谷がここへ通い続け、の旦那になると言い出したのは、他の理由があるからだと思われてもおかしくない。しかし、その理由とはいったい何だろうか?
(みたいな良い人が、遊廓で男の慰みものになっているのが耐えられないんだ。外の世界を知らないに、もっと自分の生き方を見つめ直して欲しい……っていう事だろ?でも……それって―――)
「同情、だすかえ?」
「?!」
の声は竹谷の核心を的確に突いてくる。一瞬呼吸をすることを忘れた竹谷は、から視線を泳がせて斜め下に落ちてしまう。それは無意識な肯定の表れだ。
(ここにいることが可哀想だとか、そういう目での事を蔑んでいるのかオレは……?!)
幸依の事はオレが絶対に身請けして、自由にしてやる。
外の世界の事を全て知っている様な言い草で、の事を丸め込んだ。
まるでの事を上から目線で見ているような気がして、竹谷は自分の今までの行動を思い出し恥じた。カーッと身体中が熱くなっていく。込み上げる羞恥心によって頭痛さえ覚える始末だ。
同情だなんてそんなつもりは無い。だが結果として同じ事である。今更誤解を解こうとしても、恐らく信じてもらえないだろう。それに、同情以外の言葉でに今尚近づく理由が説明出来ない。
(を身請けしたいって言い出して、自分だったら幸せに出来るとかそんな風に自分を大きく見せて……いったい何をしているんだよ!)
誰しもわかったようなふりをされて手を差し伸べられるのは嫌悪感を抱くもの。
正直に『同情でした』と謝罪すれば良いのに、声が喉奥から出てこない。誰かと喧嘩をしても、自分が悪かったときにはちゃんと謝罪をしてきたというのに。
竹谷が返答に困っていると、の身体がぐらりと揺れた。
「?!」
は俯いたまま敷物の上に両手をついて身体を支えている。けれども長い袖に隠された細腕は小刻みに揺れてた。竹谷は慌てての両肩を掴んで支えてやるとようやく顔を上げる。化粧をしている事と薄暗い灯りのせいで気付かなかったが、改めての顔を見ると額に汗が滲んでいた。
「ごめんなんし。少し……目眩がしただけでおす」
そう言っては微笑むのだが、弱々しく頼りない。そっと竹谷の胸を押し返すのだが、殆ど触れているだけの状態である。吐く息も荒くて苦しそうだ。右手を握ってやると、指先は冷たいのに掌には大量の汗が滲んでいるではないか。ただの風邪ではないことは竹谷にもわかる。
「もしかしてずっと我慢していたのか?」
「……そんな事ありんせん」
か細く、けれども苦しさを押し殺した声で答えた。
「嘘を言うなよ。具合が悪いなら今日はもう休んだ方が良い」
「それは出来んせん。指名を受ければ顔を出さなくてはなりんせんから」
「バカ野郎!少しは自分の身体を大切にしろッ!」
「八左ヱ門様……」
怒りを露わにして竹谷はの事を見つめる。はしばし目を丸くするが、『でも……』と呟いて睫毛を伏せた。竹谷は先ほどの剣幕とは打って変わって太い眉を下げると、実年齢よりも幼い顔で願い出た。
「頼むから……、せめてオレといる時間は横になってくれ」
「……あい、わかりんした」
こくりと頷いたの返答に、竹谷は少々安心したのか息を吐いた。
けれどもここには布団も無ければ枕も無い。横になるには不都合な部屋だった。
竹谷は部屋を見渡して何も無い事を確認すると、突然正座をした。そして、ぽんぽんと自分の膝を叩く。
「、オレの膝を使えよ」
「けんど……」
「」
「あい、八左ヱ門様」
は髷を解き、竹谷に支えられながらも竹谷の膝に頭を預けた。自分の後頭部に人の熱を感じて、は戸惑いながらも汗を滲ませて微笑んだ。
「ありがとうおざんす」
「首痛くなったりしないか?何か飲むか?」
「大丈夫です。八左ヱ門様さえそこにいてくだされば、何も入用ありんせん」
そう言われてしまえば弱いもので、竹谷は『そっか』と言っての額を撫でた。
「不思議ですおすえ。普段は……あちきが膝枕をして差し上げる方でおしたのに」
蒼白になりながらもはこの状況が面白いらしく、薄っすらと笑みを浮かべた。
「オレも、人にしてやるのは初めての事だな」
「そうでおすか……ふふっ…」
しんと静まると部屋には、宴を楽しむ男女の声や三味線の音色が聞こえてくる。この部屋だけが現実から切り離されてしまったかのように思えた。
竹谷に膝枕をしてもらっても、は瞳を閉じる事無くただ竹谷の事を見つめていた。
「、気にせず眠って良いんだぞ?」
自分だけが起きている事を気にしているのかもしれない。そう思ったのだが、竹谷の的は外れた。
「……先ほどの事でおすけんど、主様はあちきに同情してくりゃたのでおすよね?」
「そ、れは―――」
「安心……しんした」
「え……?」
は竹谷の予想もしない言葉を返してきた。熱い息を吐き出してはうっとりと目を細める。
「あちきはどんな相手でも関係無く、望まれれば誰にでも抱かれてきんした。あちきを入用としてくりゃる……それだけで、いっそ嬉しかったでおす。けんど、ある条件を満たすお大尽様には、抱かれねぇと決めているのでありんす」
「条件って何だ……?」
はすっと瞳を閉じてから再び開いた。
「心から、あちきを愛してくださる方でおす」
竹谷は後頭部を鈍器で殴られた様な気がした。
「あちきは……、ただ1人を愛する事が出来んせん。もし、あちきだけを愛してくださる方がいらっしゃいんしたら……きっと傷つけてしまいんす」
嘘を纏う女郎として買われるのではなく、1人の女として欲される事がどれほど辛い事なのかを知っている。そんな瞳をしている。
は困ったようにふにゃりと頬を緩めた。
「女郎になってから何人かの方が、あちきの前から去りんしたくらい……。でありんすから、主様が同情してくんなました事……ほんに、安心しました。主様まで離れては……、寂しいのでありんすよ」
「……」
はそっと寒気で震える手を伸ばし、竹谷の頬に触れた。指先は氷のように冷たいが、その分だけの指先に竹谷の体温が流れてくる。
寂しさを埋める。
そのためならどんな事をしてでも構わない。
自分を必要としてくれるなら、身体が壊れても良い。
でも、人には嫌われたくない。
「ごめんな、」
竹谷はの頬に触れている手に、自分の手を重ねた。唇を噛み締めてぎゅっと眉を寄せて何かに耐える姿に、は小首を傾げる。
「なぜ主様が謝るのでありんすか?」
「は……、オレの事を思って身請けを引き受けるって言ったんだよな。オレが納得出来なかっただけで、本当はが納得したわけじゃなかった……」
今思えば、という人間は常に自分ではない誰かの事を優先してきた。竹谷からの贈り物を受け取った時も、は竹谷の不満を抑えるために受け取ったのだろう。それと同じように、身請けの話も体調が悪い事を隠していたのも、全て竹谷の事を考えてしたものである。
「オレはを殴ったりしたヤツと同じだ。結局はにオレの自己満足を押しつけているだけだった。本当にごめん……!!」
「八左ヱ門様、どうか謝ったりしねぇでくんなんし。あちきは、そんな顔を……して欲しくなくて……………」
「……?」
の手から力が抜けるのを感じて竹谷は名前を呼んだ。けれどもはすっかり意識を失ってしまったようで、長い睫毛を伏せていた。
「何だ……、眠っただけか」
ホッとして頬や額を伝う汗を自分の袖で拭い、竹谷はの艶めく髪を優しく撫でた。
は時折苦しそうに声を漏らして身体の不快感を訴える。
「ごめん……本当にごめん、。こんな事を言っておきながら、オレは……やっぱりお前を身請けしたいんだ」
自分でもを身請けする事は良いと言えない。けれども、竹谷はを手放したくないと思ってしまう。
(これは、本当に同情なのか?)
覆い隠されている竹谷の心を暴こうとすると、の押し留める声がわんわんと耳に木霊する。
また汗が一滴滲み出したので拭おうとしたときだ。良く見れば、それは汗などではなかった。伏せられている真っ黒な睫毛の間から、流れ出ている熱い滴。
(涙が……)
は静かに眠りながら泣いていた。涙を流すところなど今まで見たことが無かった。艶やかな微笑みを浮かべている普段のからは想像出来ない。
そして、は消え入りそうな声を喉奥から絞り出す。
「よ……し、………ちか……さ、ま……」
ヨシチカ様。
初めて聞く男の名前に、涙を拭おうと伸ばした手が止まった。
そのまま拳に変わっていくと、竹谷は苦笑するしかなかった。
竹谷は帰り支度を済ませて立ち上がるが、後ろ髪を引かれて正座をするに振り返った。
少しの間とはいえ休んだにも関わらず、の顔色は相変わらず酷い。呼吸をする度に胸が痛むのか右手でそこを押さえている。
「本当に大丈夫なのか?」
「あい。姐さんに頼んで、今日は見揚がりする事にしんした。でおすから心配ありんせんえ」
「そうか……良かった。あまり無茶をしてくれるなよ。心臓に悪い」
「ごめんなんし」
「こんなときまで無理して笑うなよ」
「え?」
「オレは愛想がないからって嫌いになったりしねぇから」
一瞬竹谷の言う事が理解出来なかったのか、はきょとんとしてしまった。けれどもその直後にまたにこりと笑みを浮かべる。
「これは違いんす。嬉しいのでありんす」
「嬉しい?」
「あい。八左ヱ門様に心配していただけて、嬉しいのでありんす」
野に咲く花の様な無邪気な笑顔を向けられ、竹谷は返事の代わりに夜をも照らし出すような笑顔を返した。だが、竹谷の脳裏にの涙と男の名前が浮かび上がってきた。
「……」
「何でありんしょう?」
「…………いや、良い。それじゃあまた来るよ」
「あい」
竹谷はに尋ねる事が出来なかった。
質問に対して返って来る言葉を想像しただけで、竹谷はざわざわと胸の辺りが騒ぐのを感じてしまう。
(マズイ事になったなぁ……)
確実に、を愛している自分がいる。