竹谷編4


は目をパチパチと瞬かせて唖然としてしまう。首を傾げると、竹谷に確かめるように尋ねた。

「今、何ておっしゃいましたか?」

竹谷はを真剣な目で見つめる姿勢を崩さず、もう一度同じ言葉を繰り返した。





「オレ、のことを足抜けさせたい」





足抜けとは、女郎が見世から出て遊廓から逃げることである。
女郎たちは、花魁のように特権のある女郎以外は見世から出ることは出来ない。花魁でさえ見世から出られても大門から外へ出ることは出来ない。ほとんどの女郎は、女郎になれば最後、遊廓から出ることは叶わないのである。なぜなら女郎が各見世の商品だからだ。商品が見世になければ商売にはならない。
過酷な遊廓での生活に耐えかね、足抜けを試みる女郎も少なくは無い。しかし、遊廓にいる警備の目は厳しく、出入り口も大門1つしか存在しない。とてもではないが、女郎1人で逃亡出来るものではない。共犯者が必要なのだ。
は長い睫毛を伏せた。竹谷を諭すように語りかける。

「八左ヱ門様、それは出来んせん。もしここから逃げて見つかれば、主様は処刑されてしまいんす」

女郎は食事抜きなどの目に見えない折檻を受けるが、女郎以外の共犯者はが言うように処刑という極めて厳しい罰が待っている。

「ようは見つからなければ良いんだろ?オレも忍者を目指している人間だ。上手くやってみせるよ。何なら他のヤツに協力してもらったって良い」

だが、は首を横に振るばかりだ。

「どうしてだよ、ずっとこんなところに死ぬまでいるつもりか?!」
「八左ヱ門様―――」
「オレは嫌だ」

竹谷はの細い腰に両腕を回すと強く距離を埋めるように抱き締めた。柔らかく波打つ黒髪が竹谷の頬を擽る。

が人に殴られて傷ついて、それでも平気だと言わないといけないのは嫌だ。はもっと自由に生きることが出来るはずなんだ。は明るい太陽の下にいて欲しい」

の沈黙が続く間、竹谷はじっと目を閉じてを抱き締め続けた。

(どうしてこの人が、こんなところで生きなくちゃいけないんだ……!!男に罵られて、好きでもない相手に抱かれて、自分を道具だと思い込んで、息苦しい思いをこれ以上させたくない!!)

の手が軽く竹谷の胸を押し返す。竹谷がゆっくり腕を解くと、は満面の笑顔で竹谷を見つめていた。

……!」

期待を込めての名を呼ぶと、は傷ついた口の端をくっと上げる。

「お断りしんす」

大きな黒曜石の目に、雪の様な白い肌。通った鼻筋の下にある熟れた果実のような唇。天女のような出で立ちをしたの柔らかな笑顔は、あまりにも無残な答えを導き出した。

「あちきはここから出ません」
「な……んでだよ、?!」

竹谷はぎゅっとの華奢な手を強く掴んだ。は笑顔を崩さずに言った。

「あちきがこうして生きていられるのは、この見世に置いて頂いているからでおす。あちきを受け入れてくんなました親父様には、返しても返しきれねぇほどの御恩がありんす。その親父様を裏切って見世を出るなど出来んせん」

こんなに男の欲や汚い金にまみれた場所でも、は義理を貫き通そうとしている。その強い姿勢には、竹谷も圧倒された。だが、ここで引き下がる男でもない。

「恩はここじゃなくても返せるじゃねぇか。借金だって遊廓で働かなくても返せるだろ?!仕事はオレが紹介してやるから、はここにいたらダメだ」

のように芯の強い者であるならば、男に媚を売らずとも働く事が出来るだろう。今のやり取りでそれがハッキリとわかった。加えて女神も嫉妬する美貌を持ち合わせているのであれば、を目当てに客がどこでも集まるだろう。鬼に金棒だ。

は自分の好いた男にだけ抱かれれば良いんだよ。の事をマスかくだけの道具みたいに扱って、気に入らなければ殴るなんざ絶対に許されることじゃない。、オレと一緒に行こう!」

竹谷が手に再び力を込めると、は『んー』と困ったように笑った。

「八左ヱ門様は誤解をされているようでおすね」
「誤解?」

『あい』と言ってはにこりと竹谷に微笑みかける。の艶めいた笑顔には、いつも心臓が高鳴りっぱなしだ。

「しかと遊廓に流れてくる女たちは、親の借金や貧困、見世で生まれるなど、自分で選びここへ来んしたわけではありんせん。けんど―――」

は竹谷の手から離れると、優雅な動きで両手を竹谷の熱くなっている頬に当てた。覗き込む黒い瞳は潤んでおり、竹谷の胸は更に脈打つ。

「あちきは自分で選んで、自分の足で大門を潜りんした。この華屋にいるのはあちきの意思でおす」
「な?!そんなはず―――んっ?!」

は竹谷の唇を奪い、そのまま下を口腔へ差し入れた。いきなり入ってきた生温かい熱に驚いて竹谷は身を引きそうになるものの、の舌が頬を撫でる感覚には鳥肌を立てた。
が長い睫毛を伏せて竹谷の唇や舌を味わう。巧みな舌使いに竹谷は背中に駆け上る快感に耐えてぎゅっと目を硬く閉じた。くちゅくちゅという水音だけが部屋に響き、耳までも浸食していく感覚に頭がくらくらした。
との口付けは、蕩けてしまいそうに甘い。その甘い刺激が、竹谷の自由を奪っていくように思える。

(くっそ……!)

竹谷はそのまま快感に流されてしまいそうになるのを必死で耐え、の滑らかな肩を掴んで無理やり自分から引き離した。その衝撃で裸のままであったの豊かな乳房がふるりと揺れ、赤い唇からつ……っと銀糸が伸びる。淫らな光景を目の当たりにして竹谷は頬に熱が集まるのを感じる。
熱に浮かされて潤んだ瞳を見た瞬間、竹谷は下半身に電流でも流されたような感覚に襲われる。
は残念そうに呟く。

「あちきの口吸い、良くありんせんでおしたか?」
「いや、すっげぇ気持ち良かっ―――じゃねぇよ!!あんなんじゃ誤魔化されないからなっ!」
「あらあら、なかなか堪え性があるんでおすね」

がクスクス笑い、細く美しい手で口元を隠す。細めた目を開き、赤い頬のままムスッとしている竹谷を視界に入れる。は床に落ちていた打ち掛けを肩に羽織った。

「八左ヱ門様、あちきは八左ヱ門様を惚れておりんす。いっそ主様が愛しい」

艶めいた流し目に竹谷の心音が強く鳴り響く。鈴のように凛とした声で紡ぎ出す紅の唇に、どんな男も魅了されてしまうだろう。
しかし、の次の言葉によって竹谷は身体が一気に冷たくなった。

「先ほどあちきを殴った方も惚れておりんす。あちきの元へ来てくださる方も……」
「何だよそれ……?」
「おわかりになりんせんか?あちきは、この世の全ての方を愛しているんでおす。あちきに触れ、あちきを抱き、あちきを入り用としてくりゃる方たちが……あちきには愛しくてしょうがないことなのでありんすよ。でありんすから、あちきはここで生活しているんでおす」

うっとりと幸せそうに語るは始終笑みを絶やさなかった。だが、それとは逆に竹谷はの心地良いはずの声が、聞いていてとても重く冷たく感じた。

「……が太夫じゃなく散茶なのは、そういう事か?」
「あい。太夫になれば、あちきを求めてくださる方が限られてしまいんすので」

が頷くのを見て、竹谷は悲愴感で胸がいっぱいになった。






あちきは、この世の全ての方を愛しているんでおす。





(この世の全ての人間を愛してるだなんて……そんなの、)





あちきは、この世の全ての方に無関心なんでおす。





(って言ってるのと同じことじゃねぇか……)

全ての人間を愛しているということは、つまり特別に想っている人間がいないということ。
愛する者とは特定の人間にだけ使う言葉だ。 には特別な者が存在していない。そのことを<本人は全く気付いていないようだ。
に近づこうとすればするほど彼女の闇が垣間見え、の笑顔が遠ざかっていくように思えてならない。

(全く一筋縄じゃいかねぇってことだな。どうすれば………、ん?)

竹谷はあることに気付いて口を開いた。


「あい、何でありんしょう?」
「オレがこの前やった梅花はどうしたんだ?」

今のからは同じ花でも別の、もっと大人びた香を纏っている。

(菊か……)

女郎としての艶やかさが引き立つ菊花の香である。
は形の良い眉をハノ字に下げて困ったように笑う。

「ごめんなんし、八左ヱ門様……。あの香を嫌いなお大尽様がいらっしゃって……、割れてしまいんした」
「え……?!」

思わず言葉を失った。が梅花を身に纏っているところを見る前に、香を壊されてしまうとは思いもしなかった。

(オレがせっかくに似合うと思って選んだのに……!)

その相手に対して激しい怒りがふつふつと湧いてくる。

の持ち物にまで客がどうにかしても良いって言うのかよッ!?、怪我とかしなかったか?そいつに乱暴なことをされたりとかしなかったか?!」

先ほどの扱われ方といい、本人が大丈夫だと言ってもこっちは気が気でない。
は『大丈夫でおす』といつもと同じように微笑んだ。

「香は割れんしたが、その方が持ち上げたときに落ちんしただけで―――」
!」

竹谷はの名前を呼び、両手をぎゅっと握っての顔を真剣な、しかも怒ったような顔で見つめた。太い眉を吊り上げてふんふんと息が荒い。

「八左ヱ門様……?」

先ほどよりも強い眼光がの黒曜石とぶつかる。

「足抜けは出来ないんだよな?」
「そうでおす」
「だったら―――」

一拍呼吸を置いて竹谷は言った。





を身請けさせてくれ





「?!」

おっとりとしているも流石に驚いたようで目を玉の様に丸くさせる。
身請けとは、店に金を払って女郎を買い取ることである。料金は女郎の位で違ってくる。天神や太夫などの花魁クラスになれば料金は跳ね上がり、まず庶民は手を出すことが出来ない。

「女郎は身請けの話を断れないだろ?」

女郎は見世の商品。金さえ積めば、商品は買主に売り渡される道具と化す。

「主様はそのような事をなさる方ではねぇと思っていんした故、少々驚きんした」

微笑しているに竹谷は胸が痛むらしく、『うッ』と息を苦しそうに詰めた。

「でも、がここにいるよりずっと良い。の事はオレが絶対に身請けして、自由にしてやる。別にオレの傍にいなくたって構わないからな」

竹谷はを、この箱庭から外へ解放するつもりでいる。身請けなど、ただの解放する口実だ。
は再びクスクスと笑う。

「主様は、身請けがどういう意味を持つかをわかっていんすか?」
「へ?」
「大名なら側室や妾、一般人なら妻に娶るということでおすえ?」
「……………………?!??!??!」

竹谷は少しの間の言う事を処理出来ずに固まったが、理解した瞬間に顔から火が出そうなくらい真っ赤になった。そして『あ』だとか『う』だとか意味をなさない言葉を発しながら汗を面白いくらい流した。
の手を通してそれが伝わってくる。益々がツボに入ってケラケラと笑った。

「八左ヱ門様の良い人に怒られてしまいんすよ?」
「良い人?!いっねぇよそんなん!!」

真っ赤になりながら首をブンブンと振り、必死に否定した。

(い、いいいい今のって、求婚してたのと同じってことじゃ……っ?!)

そんなつもりではなかった竹谷は、自分の言葉を思い出してぐるぐると巡らせてしまう。その度に頭痛がして恥ずかしさが込み上げてくる。本当に消えてしまいたいくらいに恥ずかしい。

「でも……オレはにここ以外の場所で生きていて欲しいんだよ。は知らないかもしれねぇけど、遊廓の外はもっと良いはずだから。上手く……言えなくてごめん」
「主様の言うとおり、あちきら遊廓の女郎は、最高位である太夫さえお金を積まれれば身請けを断ることは出来ない定めでおす」

遊廓を出る最後まで、女郎は道具なのだ。最も、は、自分が道具扱いされていることを何とも思っていないのだが。
はすっと両手を床について竹谷に頭を垂れた。

「そのお申し出……、お受け致しんす」
「本当か?!」
「でおすが、手順を踏んで頂かなければなりんせん。これからはあちきの旦那様として、あちきの元にだけ通ってくんなんしませ」
「あっ、当たり前だ!っていうか、以外の女郎は呼び出したりなんてするつもりはないぞ」
「まぁ……。それはいっそ嬉しいことでありんす」

照れくさそうに言う竹谷に対してはころころと鈴のように笑う。

(本当にどんな時でもは笑うんだよな。嬉しい時はもちろんだけど、悲しいはずの時も怒るべき時も、いつだってそうだ……)

笑わせたいと普通は思うはずなのに、に関してだけは、笑顔以外の表情にさせたいと思ってしまう。それが本当に正しいことなのか、竹谷にはわからない。

女郎」
「あい」

襖が静かに開くと妓夫が膝をついていた。妓夫は竹谷に愛想の良い笑みを浮かべて笑みを見せる。

「竹谷様、そろそろお時間が迫っています」
「あ……ああ、わかった。それと、後で楼主に会いたい。だからまたここへ来ます」
「へぇ、わかりました」

竹谷は立ち上がって深くその場に頭を下げるを見下ろした。墨のように黒い髪が、行燈の灯りの中で濡れたように艶めかしく光る。

、また来るからな」
「あい。お待ちしております、八左ヱ門様」

顔を上げたはとびきりの笑顔で竹谷を見送った。
竹谷の気配が襖の向こうに消えるのを感じては状態を起こす。しんと静まった部屋に、賑やかな男女の笑い声があちこちから聞こえてくる。
は視線を床に落として鮮血の様な打ち掛けを握る。





の事はオレが絶対に身請けして、自由にしてやる。





別にオレの傍にいなくたって構わないからな。






(まるで、あちきを不要だとおっしゃっているようでおしたなぁ……)

一生誰かにたくさん必要とされたいと願っているの胸の内に、竹谷の言葉が刃のように突き刺さった。
しかしは痛いとは思わない。





いくら刺されても、





いくら抉られても、





流れ出るはずの血は、





とっくの昔に尽きてしまったのだから。