数日後、遊廓の大門を再び竹谷は潜った。
前回は浮かない顔立ちだったが、今夜は足取りが軽い。
お目当ての場所は先日実習で訪れた華屋である。竹谷が妓夫に声をかけて見世へと入ると、そこには先日案内をしてくれた遣手の女がいた。『こんばんは』と挨拶をすると、遣手は『あれま』と驚きの声を上げた。
「この間の忍たまの坊やじゃないかい?」
「どうも」
「こういうところは好きそうじゃない顔をしていたのにねぇ。まさかまた来るとは思っていなかったよ」
「……オレ、そんなに酷い顔をしていましたか?」
竹谷が自分の頬に触れながら聞くと遣手は『かなりね』とくつくつ笑った。
「今晩はどうして?」
「……、にお礼をしたくて来ました」
「お礼……?」
「はい」
「お礼……だって?」
もう1度確認するように呟いた遣手に首を傾げながら竹谷が頷くと、女はケタケタと笑い出した。
「ちょっと、それはいったい何の冗談だい?女郎に花代払って……しかもお礼だなんて……っ」
「実習でっ、世話になったから……!」
面白いおもちゃを見つけたように笑われて、竹谷は顔が赤く染まっていく。遊廓へ来たことなどこの前の1度だけ。遊廓独自の作法など全く知らない竹谷は何かしてしまったのかと、何もわからないまま羞恥心だけが高まった。
「と、とにかく入れてください。金―――花代ならあります(学園長から貰ったんだけどな)」
「はいはい、わかったよ」
金の無い者はここへは入れない。忍術学園という組織の名前を信用し、遣手はあの夜と同じように『おあがりんなるよー!』と店に掛け声をかけた。
女の後ろについて行くとまた遊廓独特の香が鼻腔を擽る。橙色と赤い行燈が通りを照らし出して一層幻想的である。
(前も来たけど、やっぱりすげぇとこだな……ここは)
豪華な衣装を身に纏った女郎たちが見世の中を行き来している様子は、何度見ても眩しいものを感じた。白く華奢な首筋を晒して歩く女郎たちは、年若く欲の無い目をした竹谷に興味津津のようで遠慮無く視線をぶつけてくる。時折目が合えば艶やかな笑顔でくすくすと笑う。竹谷はちらと見て目のやり場に困り、結局の待つ部屋へ行くまでずっと遣手の背中だけを見ていた。
「ここでお待ちなさいな」
遣手は竹谷を部屋へ通すと戸を閉める。竹谷が緊張した面持ちで待っていると、ほどなくして再び戸が開いた。そこには深く飾り立てられた頭を下げている女郎がいた。竹谷には顔を見ずともその女郎が誰なのかわかっている。だから名前を呼んだ。あの夜と同じように。
「、顔を上げてくれ」
「あい、八左ヱ門様」
女郎―――は化粧のされた顔をにっこりと笑わせる。
は竹谷の目の前まで来るとゆっくり正座をして座る。前で絞められた血のように赤い帯に、象牙色の着物は良く映える。黒い打ち掛けには、今にも抜け出てきそうなくらい繊細に描かれた鶴がその存在を主張している。けれどもの艶やかな美しさの前では霞んでしまっていた。
「いりんしたい今日はどうしたんでおすか?もう二度と会えねぇと思っていんした」
「遣手の人も言ってたけど、オレがここに来るのはそんなにおかしいのか?」
は朱色の唇をくっと上げる。
「八左ヱ門様は、こういう所に不慣れなようでおしたし。もそれでもて、ほんにあちきを抱きに来たんだすかえ?あちきはそれでも構いんせんが……」
「そうじゃない!そうじゃないんだッ!」
あの夜の出来事を思い出したのか、竹谷は茹でダコのように真っ赤になって反論した。しかしその答えではを益々不思議がらせてしまうだけである。
「にお礼をしたくて来たんだよ。本当に世話になったからな」
「お礼だすかえ?」
黒曜石の瞳を真ん丸に見開き、それから口元に細く白い手を当てて無邪気に笑った。
「あははははっ、ほんに変わりんした方でおすえ。授業で抱いた女郎にお礼をするため、わざわざここへ来るなんて……」
「それ、遣手にも同じことを言われたんだけど……。もしかして、迷惑だったか?」
「いいえ。そんなことござんせん」
その言葉を聞いて竹谷はほっと息を吐いた。遊廓での風習とは違うことをしてしまったのかと内心とても焦っていたのだ。
しかし、女郎に金を払って抱いたにも関わらず礼を言う男など竹谷くらいなものだろう。
は朱色に化粧された瞼を伏せる。
「あの子とはお話出来んしたのでありんすね」
「ああ……。は良くわかったな、オレのことをあの子が好きでいてくれたことを」
そう、竹谷はからのアドバイスを受け、思い切って実習相手だったくのたまが退学していく日に声をかけた。くのたまは竹谷の姿に驚きを隠せない様子でうろたえていたが、竹谷の問いかけに答えを与えた。
ずっと……好きだったの。
でも、家の都合でここを去らなくちゃいけなくなって……。
その前に、どうしても竹谷くんに触れて欲しかったの。
竹谷のことをずっと慕っていたくのたまは、竹谷に優しく抱かれたことに感動し、また別れてしまうことの辛さをより一層深めて泣き出してしまったのである。けれども言い出すことは躊躇われた。自分のことを友人だと思っている竹谷に迷惑をかけたくなかったからだ。
結果的には竹谷に大きな疑問と不安を与えてしまったのだが、竹谷はそのことを口に出さず笑って彼女を送り出した。
「あんなに泣かせちまって、もう二度と女は抱けねぇとか退学させちまったとか色々悩んでたのにな」
「良かったでおすえ」
「何でわかったんだよ?たった1度……その、寝た……だけだし」
ぽりぽりと頬を掻きながら言う竹谷に、はあっけらかんと言ってのけた。
「まぁ、少なくても八左ヱ門様より長生きしておすからね。勘……のようなものでおすよ。それに……、あんなに優しく好きな相手に抱いてもらいんしたら、女は泣いてしまうものでおす」
竹谷は両手をいきなり畳に敷かれた赤い敷物について、のことを真っ直ぐ淀みの無い目で見つめた。は竹谷の行動にはぱちくりと目を瞬かせるしかない。
「オレは友達との誤解を解いてくれたに何かお礼がしたい。あのままだったらきっと、一生勘違いしたままだった。だからお礼がしたんだよ。何か欲しいものとか、して欲しいこととか無いか?オレに出来ることだったら何でもするから!」
「まぁまぁ……」
は、予想もしなかった竹谷の言葉に驚く。くすくすと控えめに笑う。純粋な少年に対して諭すように語りかける。
「花代は頂いていんすし、お礼なんていり用無いでおすえ」
「でも、花代は学園長が払ったもので、オレが払ったわけじゃないだろう?」
「それはそうですが、あちきは女郎としてお大尽様の要望に応えたまでのことでおす」
「客からの贈り物は受け取らない、っていう見世の方針があんのか?」
「いいえ。けんどあちきに受け取る心持ちがありんせん」
「―――それで結局のこのこ帰って来たわけか」
縁側で隣に座る三郎は鼻で笑った。
「だってなぁ……あれ以上しつこいのはマズいだろ」
竹谷は昨晩の出来事を三郎に相談した。もちろん三郎に面白いネタを提供するつもりはないので、相手が遊廓の女郎であることは伏せている。年上の女に世話になったので何か礼がしたい、ということにしておいた。
「その女にはどんな世話になったんだ?」
竹谷は少し考えてから口を開いた。
「友達と誤解したまま別れるところだった。その誤解を解いてくれた人だ」
「ほぉ……。それは確かに礼をするべき相手だな」
「だろ?!」
思わず竹谷は声を大にした。三郎は驚き一瞬目を見開くが、再び目をいやらしく細める。
「お前、その女が好きなのか?」
「え……?は、はぁっ?!何言ってんだよ?!」
竹谷は三郎を睨むが、顔が朱色に染まり全く怖くない。突然の三郎の言葉に動揺して心臓が煩い。
たった一晩肌を合わせた関係。しかも授業の補習のようなものだ。さらに言えば、相手は女郎で恋愛対象にするにはあまりにも辛い。
(2回しか会ったことないってのに、それは無いだろ……?!)
竹谷は三郎の言葉を全力で否定したかった。肯定すれば、まるで女の身体に飢えた獣のような気がしてならない。それだけは避けたかった。
そういった事情を知らない三郎はただニヤニヤと笑うだけ。
「とにかく、絶対にそういうのじゃないからな!!」
「はいはい。礼がしたいのなら、もうこの際相手の意見は無視して無理やり何か渡してしまえば良い。礼をすること自体は何も悪いことじゃないだろう?」
「う〜〜ん、それはそうだけどよ……。仮に渡すって言っても何を渡せば良いかわからねぇ」
「例えば、恋文とかな」
「バッ……?!三郎、お前なぁッ!!」
完全に三郎の中で、竹谷は年上の女に恋する純情少年ということになっているらしい。竹谷がいくら怒っても柳に風という状況である。
「お前に言うんじゃなかった」
「失礼なヤツだな。そっちが聞いてきたから答えただけだろう」
「雷蔵に聞いたら悩むだろ?兵助は最近学園にいねぇみたいだし」
こういうときは真面目で優等生の意見を聞くのが1番だと思ったのだが、久々知を最近見かけていない。ろ組である竹谷たちがい組の授業を全て把握しているわけではない。時には個人的に忍務を任されることもある。もちろん忍務の内容は極秘である。
三郎がこちらに近づいてくる足音に気づいて振り返ると、そこには噂の久々知が歩いて来るではないか。
「おっ、兵助久しぶりだな」
「…………」
声をかけても久々知は返事をしない。それどころか全く三郎と竹谷の存在に気づいていないようである。廊下をそのまま通り過ぎようとしている久々知の腕を立ち上がった竹谷が掴んだ。
「おい、兵助!」
「?!」
ようやく我に返った久々知が黒い瞳を瞬かせて竹谷を視界に入れた。
「何ぼけ〜〜っとしてんだよ、らしくない」
「あ、ああ、お前たちか。オレに何か用か?」
ほんの少し動揺を見せた後、久々知は普段通りの口調で竹谷に問いかけた。
様子が変なことは気になったが、恐らく忍務絡みだろう。それ以上は追及しなかった。
三郎が久々知の肩を掴んでからかうように言った。
「ハチが年上の女に贈り物がしたいんだってよ」
「贈り物じゃない、お礼だ!!」
「物で礼をするなら同じことだろう?」
「お前が言うと何か含みがあるように思えてならねぇんだよ」
「八左ヱ門が……?」
意外そうな顔をする久々知に竹谷はムッとする。
「世話になった人がいるんだよ。だから何かお礼がしたいんだ」
「年上の……女……」
「兵助?」
「あ……。いや、何でもない。女なら簪でもやれば良いじゃないか」
「何イライラしてんだよ?」
久々知のらしくない投げやりな態度に竹谷も三郎も首を傾げる。
「そんな簡単に言うなって。何かあるだろ?」
久々知はしばらく考え込むような仕草をしてから、再び口を開いた。
「……大人の女性なら、香はどうだ?年上の人なら香炉の1つくらい持っているだろう。相手に合うようなのを選んで渡せば良い。……まぁ、相手も竹谷のセンスには諦めているだろうし、大丈夫だ」
「何だよそれ?!」
「あっはっはっはっ!兵助は上手なことを言うな」
「三郎てめぇいい加減にしろよ!」
「おいおい、私が言ったんじゃないぞ?」
「あ、それもそうか……」
「やっぱりバカだな、ハチは」
「よぉし、歯を喰いしばれよ」
「やなこった」
ギャイギャイ騒ぐ2人に呆れて久々知はその場を離れようとした。竹谷が三郎の顔を抓りながら久々知を呼び止める。
「ありがとう兵助!香りは梅花にする」
「梅花?少々子供っぽくないか?」
「そんなことねぇよ。あの人に良く似合うと思うし」
梅花は芳醇な春先の梅の香りだが、少女の年代が好む香りである。だが、竹谷は蝶のように艶やかなではなく、春の訪れを思わせる無邪気なを知っている。
「…………」
久々知はまたぼんやりとしているようで突っ立っている。
「兵助?何だかさっきからお前変だぞ?」
「いや……、何でもない。オレは次授業だから行く。勘右衛門を待たせたままだ」
「あ、ああ。またな」
久々知は忍務で疲れているのか、そっけなく竹谷と三郎から立ち去って行く。
2人はおかしいと首を傾げながらもその背中を見送った。
竹谷は町で香を買い、それを綺麗な浅黄色の袋に入れて夜の遊廓へと出かけて行った。
は竹谷の礼を受け取ってくれるかはわからないが、もう一度話が出来ると思うと気分が明るくなる。
赤い提灯が揺れる通りに目的の暖簾を見つけて足早に近づいた。が身を寄せている華屋の前で客引きをしていた妓夫は、直ぐに竹谷の姿に気づいた。そして中へと通してくれる。流石客引きのプロというところだ。既に顔を覚えられてしまっていた。
気恥ずかしく思っていると、遣手の女の姿が見えた。金持ちそうな身なりをしている男に妓夫と一緒になって声をかけていた。恐らく馴染みの客なのだろう。タイミングを見計らい、竹谷は声をかけた。
「あの、こんばんは」
「あぁ、坊やじゃないかい。今日もまたに?」
遣手が瞳を細めると竹谷は照れながら頷いた。
「この前は結局お礼をさせてくれなかったので、再挑戦しに来ました」
「それは御苦労なことで。でも、今はに先客が来ているんだよ。少し待ってもらっても良いかい?」
「え……?あ……、はい……」
に客が来ている。ということは今は竹谷の全く知らない男と杯を酌み交わしている―――つまり、肌を重ねていることを意味している。急に身体の内側がざわりと粟立つのを感じた。その胸のざわつきは顔に出ていたようで、遣手は『あら』と頬に手を当てた。
「坊や、女郎っていうのはそういうもんなんだよ」
はただこの見世で囲われているのではない。女郎という男の欲に応えるためにいる。
が女郎であることは頭で理解していたはずなのに、竹谷はやりきれない虚しさを感じた。
遣手の呟きが耳に入って来る。
「特にはねぇ……」
竹谷はここぞとばかりに今まで疑問に思っていたことを口にした。
「どうしては散茶女郎なんですか?オレは……、太夫くらい綺麗だと思うんですけれど……」
美しさだけでなく、会話の内容も高い知性と教養を感じさせるものばかりであった。触れた指先には三味線タコが出来ていた。恐らく楽器も相当上手く弾けるのだろう。
そんなが散茶という位にいるのはおかしいと疑問に思っていた。太夫では無いにしろ、散茶より上の天神ではないだろうか?
曇りの無い目で質問をされて、遣手は視線を逸らして意味有り気に目を伏せた。
「……確かに、あの子には、太夫にも匹敵する美貌も教養もある。でも、あの子は―――」
「何だと、この……っ!!」
「「?!」」
店の奥から男の太い声が響く。恐らく見世に来ている客だろう。遣手はさっと竹谷に背を向けて見世の中へ入った。竹谷もその後を追って暖簾を潜った。
艶やかな雰囲気だったはずの見世の中は、男に怒鳴り声で引き裂かれていた。声の方へ向かって走ると、ある部屋の戸が開いている。部屋へ駆けつけると、遣手がうろたえたように戸の前で顔を曇らせている。騒ぎに気付いた妓夫が、客のことを宥めようと困り顔で言った。
「お大尽様、困ります。乱暴なことは―――」
「うるさいっ!」
部屋の中には男女が1人ずつ。お世辞にも並みとは言えない顔の小太りな男は、目くじらを立てて怒りを露わにし、一糸纏わず布団の上に座込む女を睨みつけていた。女は波打つ美しい黒髪を乱し、男のことを見ようとしない。男に殴られたらしく、赤い紅の引かれた唇の端から紅以上に赤い血を一筋流していた。
竹谷は女―――を庇うように男の前へ立ち塞がった。驚きの方が強かったが、直ぐに怒りが満ちてくるのがわかる。
「女に手を上げるなよ!」
「何だお前は?ここの者か?花代を払って女郎を買ったのだから、別に何をしようと構うものか。青ガキが口を出すような事ではない」
「何を……っ?!」
せせら笑う男に、燻っていた怒りが爆発しそうになる。しかし、竹谷が行動に出る前に凛とした声が響いた。
「止めておくんなんし」
振り返ると長い髪に肌を隠して佇むが微笑していた。あまりの美しい立ち姿に竹谷も男も息を飲んだ。
「ここで騒ぐと、親父様に見世の出入り禁止になってしまいんすよ?それでも良いんだすかえ?」
親父様―――楼主の力は絶大である。そして、遊廓の仕来たりは甘く無い。
「いきなり突っかかってきたのは、このガキの方だろう?!」
「八左ヱ門様は、あちきのお大尽様でありんす。お大尽様同士の争いは出入り禁止、またはそれ以上のことにもなりかねませんえ?」
男はにそう論じられ、ぐぐっと悔しそうに厚い唇を噛み締める。見世への出入り禁止は男にとってかなりの痛手のようである。警戒態勢を解かない竹谷を一瞥し、男はを憎悪を滲ませた目で見た。
「ふん、女狐め。このような青ガキにまで股を開くとは、酔狂な事だよ。卑しい女だ」
「っ!」
竹谷は事の成り行きを黙って見ていたが、男の吐き捨てた言葉に頭が真っ白になる。背を向けて立ち去ろうとする男に拳を振ろうと握り締めた時、その拳をひんやりとした冷たさが包んだ。血の気を失っているの手である。熱く滾っていた頭までその冷たさが満ちてくる。
「……」
「また来てくんなんしたね。嬉しいでおす。どうぞお座りください」
何事も無かったかのように、にっこりといつもの艶やかな笑顔を竹谷に見せた。しかし、口元のほくろも伝う血で赤く滲んでしまっている。
竹谷はに落ちて皺くちゃになった打ち掛けを拾い、の白い肩にかけて遣手を呼んだ。
「すみませんが、止血剤と綺麗な布をお願いします」
「女郎の手当てなら妓夫にさせるよ。アンタがすることじゃない」
「いえ、オレがそうしたいんです」
「……わかったよ。少しまっていておくれ」
遣手は直ぐに妓夫に示指を出して竹谷に言われた物を持って来させると、戸を静かに閉めた。しんと静まり返った室内で、竹谷はの口元を拭おうと手を伸ばす。しかしは首を横に振って拒んだ。
「入り用ありんせん」
「何言ってんだよ。このままにしておいたら、傷痕が残っちまうだろ?」
「あちきが自分で撒いた種でおす」
「が何か客に言うなんて信じられねぇよ」
「あちきが、何か気に障る事を言ってしまいんしたのでありんしょう」
「だから殴られるって言うのか?!」
「あい」
半ば叫ぶように問いかける竹谷とは対照的に、は微笑を崩すことなく頷いた。さもそれが当然といった具合に。
(何でこんな風にいられるんだよ……?!殴られて、怪我して、痛い目に遭っても……自分を抑え込んでいるわけじゃない。本当にそれが当たり前だと思ってるんだ……!!)
が特に我慢をしているように見えなかった。かと言って、不満があるのに諦めているわけでもない。そういった感情の全てが存在していないのである。
このままは本当に怪我を放置してしまうだろう。腫れ上がってしまっている頬が不自然に赤い。竹谷の方が痛そうに顔を歪めた。
(くそ……っ!!)
竹谷は最も言いたくなった言葉を口にした。
「……オレは今さっきを買った。だから……、だから、オレの言う通りに手当をさせてくれ」
「あい、八左ヱ門様」
はアッサリと竹谷の申し出を受け入れて身を寄せた。黒い瞳を細めて天女のような笑みを見ても、ちっとも嬉しいと感じなかった。むしろ悲しみが膨らんでいくばかりである。
竹谷はなるべく丁寧に血を拭い、止血剤を患部に塗り込んでいく。紅が混じって桃色に変わった口元は何とも不格好である。それでもは手当が終わると『ありがとうおざんした』と手をつき頭を深く下げた。ぼさぼさに乱れてしまった黒髪を撫でると、は猫のようにしなやかな動きで竹谷に近づいてくる。竹谷の胸に両手をピッタリとつけるとの肩から打ち掛けが落ちた。
の身体には情事の名残である鬱血痕や汗が滲んでいる。そして別の人間がに残していった臭いが残っている。
竹谷は眉間に皺が溜まり、抱き寄せてしまいそうになる腕の力を抑えつつ、持ってきた袋をにずいと押しつけた。
「まぁ、何でありんしょう?」
「梅花の香だ。に似合うと思って……」
それが先日の礼だということはにもわかっているのだろう。竹谷はすかさず言葉を続けた。
「子供っぽい匂いかもしれねぇけど……が受け取ってくれないんだったら、コレは捨てる。やる相手もいないんでな」
捨てる、という言葉にはぴくりと反応を示した。しばし考えた後、は竹谷の手の中にある袋を見つめた。
「そう……でおすね。それではこの香も可哀想でおす。頂くことにしんす」
は恭しく竹谷から袋を受け取ると、瞳を閉じて息を吸い込んだ。梅の柔らかく芳醇な香りがの心に染みわたる。
「良い香り……。ありがとうおざんす、八左ヱ門様」
礼としてではなく、捨てるから拾うといったようにしか感じられなかった。だが、に何か贈ることが出来て竹谷はひとまず気持ちが落ち着いた。
「……、いつもああやって殴られているのか?」
「色々なお大尽様がいらっしゃいんすから」
色々な客が来ると言う。その言葉にはたくさんの意味が込められているのだろう。
遊廓という閉鎖された空間で生きているには、竹谷がおかしいと思う事も違うと思う事も理解出来ない。なぜなら遊廓という場所で生きてきたからだ。他を知らなければ、比べることも出来ない。比べられないということは、ずっと成長しない価値観の中で物事を見なければならないということだ。いくら美しい花を咲かせても、他の花を知らなければ、その美しい花を本当に美しいと認識出来ないのと同じように。
不幸、ということを不幸だと思う事が出来ない。
「」
「あい」
が竹谷を見れば、そこには真剣な眼差しで自分を見降ろしている竹谷がいる。
竹谷は決意すると、にこう言った。
「、オレ―――」