主人公編4


が待ち侘びたように襖に手を伸ばし、ほんの僅かに襖を開けた。その瞬間、突然襖の向こうから手甲をつけた腕が伸び、もぎ取るようには手首を掴まれた。華奢な手首に、肌に、強い力が食い込む。

「八左ヱ門、様……?」

自分にこんな乱暴な事を竹谷はしない。竹谷ではない、別人。それを理解し、の背筋に冷たいものが走る。
抵抗しようと身を捩じらせるが、その人物は襖を開けて座敷へ侵入してきた。そのまま強く引っ張られ、その人物の腕に抱かれる。ふわっと鼻腔に感じた匂いは、身に覚えがあった。顔を上げて、その人物の名前を呼ぶ。

「兵助様……」

身体を離し、覆面を外し素顔を外気に晒した久々知は、真剣な表情でを見つめる。その瞳には、怒りが滲んでいた。

「何をしているんですか?命を狙われているとわかっているでしょう?それなら、襖を開ける前にもっと警戒するべきです。簡単に襖を開けるような事、しないでください」
「それは……ごめんなんし」
「…………いえ、オレの方こそ、変な事を言いました」

は、久々知の暗殺する標的である。そんな自分が、言えるような事ではなかった。自然と出てしまった言葉は戻らない。
気まずい気持ちのまま、久々知は黙り込む。その代わりには口を開いた。

「兵助様は、あちきを殺めに来たのでありんしょう?」
「…………はい」

重い返答だった。だが、はいつも通り薄く微笑みを浮かべている。

「八左ヱ門から聞いていて、もう知っていると思いますが、ずっとオレはあなたの命を狙っていた。見世に通っていたのも、全部そのためです」
「あい」
「!あなたは―――」

淡々と語り始めた久々知だったが、平然と返事をしてみせるに思わず声が大きくなる。その声のまま言葉を続けそうになったが、ぐっと堪えた。

「あなたは、驚かないのですね。あなたは、オレが怖くないのですか?」
「兵助様を怖いなど、思うはずありんせん」
「オレがあなたを殺そうとした晩も、オレが殺しに来たとわかった途端、されるがままでした。オレには……、理解出来ない行動です」

あのとき、は久々知が暗殺者だとわかった瞬間、抵抗をしなくなった。どんな人間でも、死に恐れを抱くときがある。自分の命を掻き消されまいと抵抗するものだ。けれども、にはそれが感じられなかった。それどころか、安堵したようにさえ見えた。

「……僅か、あちきの話をすると致しんしょう」

は笑っていたけれど、その笑顔は久々知にうつる事はなかった。

「兵助様はもう気づいていんしょうが、あちきは武家の生まれでありんした」

久々知には、が武家で育った事に気づいていた。花魁にまで達した女郎は、教養こそあるものの、武家の娘のように座って恭しく襖を開けない。真正面から立ったまま両手で大胆に開く。それに、女郎は粋では無いからと、冬でも足袋を履かずに過ごす。だが、は常に素足ではなく足袋を履いている。これは武家の習慣に多く見られるものだ。少なくとも、女郎ではない。
落ちぶれた武家の娘ならば、教養もそれほど無く、身売りのために遊郭へ来てもおかしくはない。だが、には育ちの悪さを露呈する仕草は何も無かった。花魁になる女郎は厳しく教養や立ち振る舞いを身に着けるが、は散茶女郎の位に留まっている。見世で教え込まれたわけでも無さそうだ。だとすると、やはり格式高い武家の出であるという考えに至る。

「やっぱり、あなたは武家の方だったんですね。何となくは気づいていましたが……」
「あい。こなたから先は、僅か長くなりんすけんど、聞いてくれんすか?」
「はい。オレは、もっとあなたを知りたい」
「それは、いっそ嬉しいでありんす」

は、竹谷に話したように、遊郭へ辿り付くまでの経緯を久々知に話した。位の高い武家に生まれた事、母親は他に好きな者がいたが無理やり嫁がされた事、女の子供しか生まれなかった事、母親が心を病んで死んだ事、女は家に必要無く家を追い出された事。……。そして、家に残してきた弟の話をした。可愛い弟を語るは、本当に幸せそうだった。

「―――あちきが実家を出されるまでの短い間でありんしたが、姉と慕ってくれて、弟は真に素直で優しい子でありんした。けんど、母は亡くなるまで弟に辛くあたり、あちきにはただ弟を慰める事しか出来んせんでした」
「武家は血を重んじますから。それに、跡継ぎである男子を産めなかった事が関係しているんでしょうね」
「あい、そうでおす。弟は……あちきをさぞかし恨んでいるでありんしょう」

は向かい合う久々知に近づくと、華奢な手で久々知の頬に触れた。

「黙っていんしたが、……主様は、あちきの弟と瓜2つでありんす。顔も、髪も、肌も、年齢も、真に良く似ておいででありんす」
「!」

こうして食い入るように自分を見つめるを、久々知は一度見ている。






それなら……1つだけ。





何です?





あちきに、その顔を良く見せておくんなんし。






あれは、決して自分の顔を気に入っていたから見ていたわけではない。久々知と弟の姿を重ねていたのだ。

「兵助様、覚えておりんすか?あちきと初めて会ったときの事」

するりと久々知から離れ、は行燈の光に視線を移した。黒曜の瞳が橙色に輝く。2人の出会いはまだ1年も経っていないはずだが、の表情はまるで遠い昔を思い出すような表情をしている。その理由を久々知は知らない。

「初めて会ったとき……」
「あい。あのときは、兵助様を見て、死神が来んしたのかと思いんした」
「死神……?」
「そうでおす。家に置き去りにされた事を恨んだ弟が、あちきを殺めに来たのだと……。いっそ驚きんしたえ」

久々知と出会った瞬間、口を開いたまま久々知に視線を浴びせ、今のから考えればかなり動揺していた。つまりそれは、そういう事だったのだろう。

「でありんすから、兵助様に殺されるといわす予感はあったんでありんす。それならば、驚く事は無いでありんしょう?」

は目を細め、スッと行燈の格子を外した。すると、いつの間にか部屋に入り込んでいた蛾が、橙色の炎に誘われて近づいていく。蛾は、炎に翅を焦げ付かせ、それでも炎の周りを羽ばたき続けた。焦げた臭いと、ジッジッという音が混じる。その滑稽とも思える光景を見つめながら、は言葉を紡ぐ。

「あちきは、殺されるとわかっていても、近づかずにはいられんでありんした。こなたの蛾と同じでありんすなぁ」

蛾はやがて翅の殆どを真っ黒に焦がし、久々知の目の前で火毛氈へと墜落した。そして、ピクリとも動かなくなって絶命していった。ただ久々知はその様子を見つめる。これが直ぐそこに迫りつつあるの未来だと思うと、視線を逸らせなかった。

「あちきは、両親から受け入れられておりんせんでした。でありんすから、あちきは、あちきを必要としてくださる方の集まる場所へ行きたかったえ。冷え切ったこなたの肌を温めてくだされば、それで良かったのでありんす。そいで、こなたの見世へ辿り着きんした」

久々知はの座敷に視線を巡らせた。散茶女郎の位で座敷を与えられているのはだけ。大門を潜り、外の世界へ足を伸ばせないにとって、この座敷こそが全てである。

「あちきの話はこれで終わりでありんすえ。さぁさ、あちきを殺める前に、何か感想があれば伺いんすよ?」

少々ふざけた口調に、久々知は煽られるかと思いきや、そうはならなかった。強い眼光をに向ける。はそれを予想していたのか、ただ黙って久々知の言葉を待っていた。

「オレは、あなたの弟じゃない。だから、弟があなたを恨んでいるか何て知らない。あなたがどんな気持ちで今まで過ごしてきたのかも、少し話を聞いたくらいじゃわからない。でも―――」

今度は、久々知がの頬に触れる。





「あなたが、少なくとも1つ、嘘をついている事はわかる」





はそれが正解と言わんばかりに、にっこりと嬉しそうに微笑んで言った。

「その根拠は?」
「武家は、女子を嫁がせて家同士の絆を結ぶ。位の高い武家なら、尚の事です。男子が生まれず跡継ぎに困る事はあっても、女子が生まれて困る事はありません。あなたの実家は確かに女ばかり生まれて、跡継ぎに困っていたという点を強調して話をしていたから、気づき難いかもしれませんけれど。つまり、あなたが家を追い出されたのは別の理由がある、というわけになります。違いますか?」
「……ふふっ、八左ヱ門様は騙せても、やはり主様はそうもいきんせんなぁ」

竹谷には伝えられなかった、本当の理由。の闇。
はくるりと久々知に背を向け、金箔で美しい紅葉の装飾された漆塗りの箱を取り出す。中には、竹谷と久々知からそれぞれ贈られた香が、大切に仕舞われていた。ふわりと座敷に柔らかな花の香りが広がる。2つの混ざり合う香りは、不思議と不快には思えなかった。

「兵助様のおっしゃるとおり、あちきは女ばかり生まれたせいで家を追い出されたわけではありんせん。あちきは―――」

今までずっと凛とした声だったの声は、若干震えていた。嬉しさや面白さという気持ち以外、殆ど感じ取れなかったの声が、初めてそれ以外を滲ませている。





1つ、質問しても宜しいでありんすか?





へ?あ、あい、何でありんしょう?





人間には、男と女の2つ以外に……、何が存在すると思いんすか?






あちきは、【石】なのでありんす





石。
久々知は息を飲む。
音にしてたった2文字単語に込められた意味を理解し、目を大きく見開く。胸に黒く重たい鉛が落ちてきた気がした。の中にある鉛の塊は、もっと重いものだろうとわかる。
石―――石女―――うまずめ。
それは、この時代、女が女として扱われない事を意味していた。

「ふふっ、『石を抱いても子は出来ぬ』……。真、上手い事をおっしゃいんすなぁ」

自虐的な声が座敷に響く。

「あちきが12の頃、お医者様のお調べを受け、あちきが石女である事がわかりんした。石女のあちきは、いくら愛されんしても、決して子を孕み産む事は出来んせん。でありんすから、家を出されたのでありんすよ。いっそわかりやすいでありんす」

愛する夫との間に子供が出来ない。女にとって、それがどれだけ不幸か。しかし、不幸はそれだけに留まらない。子供を産めない女はこの時代、非常に差別された。石女のいる村は滅ぶ、石女がいるとご神木が枯れるなど、石女は穢れた者という扱いを受けた。村でこれだけ酷い仕打ちを受けるのだから、跡継ぎが重要視される武家では尚更だった。
竹谷には、この事実を言えなかった。竹谷はきっと、愛する者との子供を強く欲しがるに違いない。大家族が似合いそうな彼だ、に子供が出来ないとわかったら、どれだけ衝撃を受けるだろう?そして、の辛い境遇を思い、本人よりも悲しみに暮れると推測出来た。

(八左ヱ門様の辛そうなお顔は、見たくありんせん)

がなぜ遊郭に身を預けたのかも、自ずと答えは見えた。

「こんな身体のあちきが役立てられるのは、廓以外に無いと思いんした。子を孕まない女郎は、理想の女郎でありんしょう?それに……、こなたならば、穢れている事も忘れられんすえ。子を真に孕まないかも、確かめてみたいと思ったでありんす。まぁ……、結果は見てのとおりでありんすけんど」

視線の先にあるの背中は、言い切った後、俯いた。親と逸れた子供のように酷く寂しい後ろ姿。そんなを掻き消したくて、久々知は華奢な背中を静かに抱き締めた。一瞬身体を強張らせただったが、久々知の温もりを感じ、彼の腕に触れる。温もりと引き換えに、胸の中にある鉛は重さを増していった。

「!?」

を抱き締めた両腕に、ポツポツと熱い雨が落ちてくる。いや、雨ではない。これは、が流す涙だった。

(嗚呼……、まだ、泣く事が出来るのでありんすなぁ)

穢れていると差別を受け、泣き続けた日々が嘘のように、は廓で泣く事は無かった。もう涙は流し尽し、枯れてしまったとさえ考えていたのに。自分が流す涙には驚いていた。

(兵助様が、あちきに涙を思い出させてくださいんした……)

あれほど絶えず笑顔だったが吐露する弱さに、久々知は愛おしさが募る。がこれ以上震えないように、しっかりと抱き締める。それに応えるかのように、は久々知の両腕に自らの手を添え、きゅっと抱く。

「兵助様、あちきは、いったい何なのでありんあしょう?ずっと考えてきんしたが……あちきには、自分が何者なのかわかりんせん。見た目は女子でも、子は産めない。子を産めないのに、男子ではない。女子でも男子でもない人を、物の怪と呼ぶ子がおりんしてなぁ……。やはり、あちきは皆が言うように穢れているのでありんしょう」

生命を生み出す事の出来ない身体。宙ぶらりんの存在。は、自分が何であるかをわからず、今まで生きてきた。には、誰も理解者がいなかったのである。

「穢れたあちきは、名前以外の全てを捨てるしかありんせんでしたえ。唯一手を伸ばしてくれた、あの子まで穢れてしまう気がして……」

の話を黙って聞いていた久々知が、背後で息を吸う。の耳元に、吐息と久々知の憂いの声が届いた。

「オレは今日、あなたを殺しに来ました。その決意は、今も変わりません」
「あい。あちきは、兵助様になら殺されても―――」
「でも、それは忍務だからという理由じゃない」
「え……?」

は多少なりと驚いた。久々知の事は、上からの命令に絶対だと思っていたから。

「依頼主は、かなりあなたを殺す事に執着しています。オレが殺すのを諦めても、きっと他の暗殺者が送り込まれるでしょう。オレのような半人前じゃなく、プロの暗殺者を雇うと思います。そうなれば……、今のオレには、あなたを護れない」

竹谷なら、『どんな事があっても絶対護りきる!』と言っていたに違いない。けれども、久々知には絶対という言葉を使う勇気が無かった。

(オレは、八左ヱ門にはなれない)

それならば、久々知は久々知のやり方で、を護る。

「誰かに殺されるとわかっているなら、あなたはオレが殺す。他の誰にも、あなたの命を渡したりしない」

の細い喉元に、キラリと光る物―――寸鉄の切っ先が宛がわれる。少しでも動けば、喉に食い込む位置だ。にはそれが何であるかは見えない。しかし、自分の息の根を止める物だとは理解出来た。だから、久々知のその手に、は自らの手を添える。

「あちきは、真は既に何年も前に死んでいたのでありんしょう。亡霊となって、こなたの世を彷徨っていんした。空っぽのあちきという亡霊は、満たされず、醜く求める事だけを求めてきたのでありんす……。けんど、もうそれに飽きんした」

いつまでも満たされない心と身体に、は限界だったのかもしれない。
振り向いたは、目を細めて安心しきったような顔をしていた。それは久々知にとって救いだった。最期の顔が、こんな顔で。

「兵助様、終わりにしておくんなんし。主様の、その手で」

久々知はの桃色に艶めく唇に、深く口付けを落とした。はそれに応えて目をゆっくりと閉じる。





(本当は、ただの独占欲だ)





口付けをしたまま、久々知は寸鉄をの首元から距離を取り、構えた。
寸鉄を強く握り締め―――





さん」





初めて女郎の名を呼んだ。











「?!」

そのとき、の耳に、竹谷の明るく元気に自分を呼ぶ声が蘇った。
ドクン、と深く強く胸が脈打つのを感じて、は瞳を大きく見開いた。
もしここで自分が死を選んでしまったら、竹谷はどう思うのだろう?
竹谷の深い悲しみに満ちた顔が脳裏に浮かぶ。

(あの太陽みたいな笑顔を、あちきは壊してしまう……?)





そんなの、





嫌、だ。





そう言ってしまいそうになった瞬間、は久々知の肩越しに見える襖の隙間から、黒い影を見た。ギラっと暗闇に浮かぶ目玉が2つ、こちらを睨みつけている。

(八左ヱ門様ではありんせん……!)

それは、を殺しにやって来た暗殺者の影。
紛れも無い、敵だった。