最近のオレはどうかしている。最近というか、具体的にはあの女郎と出会ってからだ。それはわかっている。
暗殺の依頼を受けるのは前にもあった。忍は情報を操り、闇に乗じて人を殺す事もあり得る。覚悟していたはずの事を、オレは今まさに躊躇ってしまった。
女郎に毒を飲ませ、そのまま死を待てば良いだけだったにも関わらず、女郎を助けてしまった。自分で殺そうとしたこの手で、彼女を救った。
自分が何をしたいのかわからない。矛盾している。
おかしな事と言えば、なぜオレに暗殺を依頼してきたのか、だ。本当に相手を殺したいのなら、プロの忍者に頼むべき事。依頼者は名のある武家で、金が無いというわけでもないだろう。しかも、オレを名指ししてきた。オレは武家と何の接点も無いし、指名されるような覚えもない。となれば、いったい何を思ってオレを指名してきたのだろう?
まず先に、この武家について知る必要がある。このままでは、忍務達成に支障が出てしまうと判断し、武家へ足を運んだ。文を送るのも時間がかかってしまうので、直接出向く方が良い。
宵の口にオレは依頼書の差出人である武家の門を叩く。身分を明かして依頼書を見せると、門番は樫の木で出来た重い扉を開けた。
「……!?」
なぜか門番はオレを見ると一瞬顔を強張らせた。
「何か?」
「いや、何でもない……。入れ」
「はい」
何でもないと門番は言うが、館に入るオレの背中に痛いくらい視線をぶつけてくる。首を傾げつつ、案内役の侍女に声を掛けた。
「久々知兵助と申します。御当主にお目通り願いたいのですが」
「はい、お話は窺って―――?!」
「どうかしましたか?」
「あ、あぁ、いいえ……。ささ、どうぞ。ご案内致します……」
門番と同じく、侍女の態度もどこかおかしい。しかし、今回用事があるのは門番や侍女ではない。無駄口を叩く必要も無いと思い、黙って案内された。
館はどっしりと重い雰囲気で、柱も梁も太く逞しい。部屋の前を通るとき、繊細で豪華な襖絵が、橙色の明かりの元その存在を示している。昼間に見れば、きっとこれ以上に美しいのだろう。それに部屋から品の良い花の香りが漂ってくる。
広く整えられた庭でいくつもの灯篭に灯りが揺れている。遊郭にも匹敵する量の灯りを、個人の館で賄っているとは驚きだ。よほどの権力を握る一族であるとわかる。
「ここでお待ちくださいませ」
「わかりました」
通された部屋は客間のようで、オレのような忍者見習いにはもったいない造りだった。
半刻ほどして、隣の部屋からきしきしという小さな音が聞こえてきた。すると先ほどの侍女が戸を僅かに開けた。
「御当主―――由親様がお会いになられます」
オレは襖の前で深々と頭を下げ、当主との対面に備えた。侍女が静々と襖を開ける音がして、冷えた空気がオレの身体を硬直させる。
「面を上げよ」
「…………」
「……面を上げよ」
2度目の声で顔を上げると、雪洞の仄かな灯りの元、御簾の向こうに人影が見えた。想像よりも小さい人影。声も思っていたよりずっと若かった。オレと同じ年頃の子供ではないだろうか。
扇で隠された向こうにいる人物は、『ほう……』と呟いてオレに視線を遠慮なくぶつけてきた。じろじろとそんなに見られて良い気分はしなかったが、耐えるしかない。やがて、当主は面白そうに言った。
「貴様が久々知兵助か。はは……。一度目で確かめるのも悪くない」
この口振りから察するに、オレの事を詳しく知っているわけではなさそうだ。
それなら、どうしてオレをわざわざ暗殺忍務に指名してきたのだろう?
「それで、何用だ?」
「なぜ、遊女の暗殺に、この久々知兵助を御指名してくださったのでしょうか?」
「そんな事を聞きに来たのか?それを聞いてどうする?忍風情が。理由を知ってどうする?早う遊女を始末してくれれば良いのだ。違うか?」
「…………」
当主がそう言うのも最もだ。忍務についていちいち理由を聞く忍者など、聞いた事も無いだろう。
呆れたような当主の声に、オレの質問がおかしさを増す。
「……ま、面白い物を見してくれたお礼に、教えてやろう」
「ありがとうございます」
意外にもオレの質問に答えてくれるらしい。しかし、面白い物とはいったい何の事だろう……?
「貴様を指名した理由は……ただ1つしか理由はない」
「1つだけ……」
『はは』と、またおかしそうに笑う当主。
「貴様でないと意味が無いからだ」
オレじゃないと意味が無い……、というのはどういう事だ?オレにしか出来ない事が何かあるというわけか?
いくら自分を振り返っても、当主の言葉とは食い違っている気がしてならない。
「話はこれで終わりだ。帰れ。そして早く遊女を始末せよ」
「……っ、はい。本日はお時間を頂きまして、ありがとうございました……」
結局オレの疑問は解決しなかった。遊女を狙う理由も、オレがどうして指名されたのかも。
館を出て、オレは自分に問いかけてみる。
オレは何が知りたかったんだ?武家が遊女を殺したがっている理由なんて、知って何になる?オレが忍務を任された事も、別にそこまで気にしなくて良い。ただオレは忍務を遂行すればそれで良いんだ。当主がああいう風に答えるのも、最初からわかっていたはず。
……何を期待していたんだろう?いったい何を……。オレは何がしたくてここまで来たんだ。
本当に、何がしたいんだオレは……。
……今夜、あの女を殺す。
1度は助けてしまったものの、もう迷える時間も残されていない。今乗り越えなければ、一生忍者にはなれなくなってしまうという瀬戸際だ。
そうするしか……ないんだ……。
泥沼のような日々だった。深みにはまってしまえば、永遠に沈み続ける。
光の見えない沼底に、あの女はいた。
あのような場所で、いつも、オレに笑いかけていた。
月の明るい夜だ。本来ならばこのような日は避けるべきだろうが、オレにはもう時間が無い。
遊郭の大門を潜り、再び幻想の世界へ入る。この煌びやかな夜の世界も、今日で見納めとなるだろう。風に乗って届く花の強い香りを振り払うように、急ぎ足で華屋へ向かった。
華屋の裏手へ入ると、オレは私服から素早く忍装束へ着替えた。口元を覆面で覆い、足音を忍ばせて内部へ侵入する。調べておいた人通りが最も少ない廊下を渡る。女たちが男を呼ぶ甲高い声や、酒を飲んで酔った男の怒鳴り声が聞こえてきた。この近くにはいないようだが、食事を運ぶ見世の者は引っ切り無しに移動している。この場所も、見つかってしまう可能性も低いわけではない。
オレは予め外しておいた天井板に手を伸ばし、天井裏へ入った。慎重に足を進め、あの女がいる部屋を目指す。
もしも男に抱かれていたら、その男ごと殺してしまえば良い。女郎をわざわざ抱きに来るような男だ。死んでも問題ないだろう。怨恨の縺れで男が女郎を殺し、男も自害。女1人でも、女郎が借金を苦に自害。こんな話は、遊郭なら十分にありえる。
女の元へ近づくにつれ、らしくないくらい脈打っている。初めて人を殺めたわけでもないのに、そのときに似ている。
女の部屋の天井まで来た。女は仕事の支度をしているのか、薄明かりの下で鏡に向かいながら化粧筆を動かしていた。真っ白な肌に手慣れた様子で粉を乗せている。
あのとき飲ませた薬が効いて、すっかり動けるようになったのか。
……何を安心しているんだ。これから殺す相手の健康を案じてどうする。
周りに人の気配は無い。行くか。
オレは音も無く天井を外し、女の背後へ降り立ったその瞬間、タイミング悪くも女が後を振り返った。
女は突然現れたオレを視界に捉えて、黒曜石の瞳を見開く。オレが細腕を掴み、女を揺さぶる。女の肩が鏡にぶつかり、その下にあった香炉の上に落ちた。鏡が割れる音を聞きながら女の腕をより強く掴んで引き倒す。乱れた黒髪から零れる鼈甲の簪は、まるで花の様に散らばる。
馬乗りになり、オレは女が大声を出さないように口元を塞いだ。化粧の香りがこの殺気に抵抗するように漂ってくる。懐に手を伸ばして苦無を握り、白く折れそうな首元へ宛がった。
これで、苦しかった日々も終わる。泥沼からオレは出て、2度と戻らずに済むのだ。
息を吸い込み、苦無を握る手に力を込めたとき、
「……っ!」
女とオレの視線が合う。女は顔を半分を覆われており、表情は目からしかわからない。それでも、女が気づいたという事が眼光から伝わってくる。オレが、久々知兵助であるという事に。
女は驚く行動に出た。瞳を眠るように閉じ、強張っていたはずの全身から力を抜いたのだ。指の1本も動かさず、オレにされるがままになっている。
オレにはわかってしまった。オレの手の下で、女はこの状況の中微笑みを浮かべていると。
いえ、随分とお若い忍者様だと思いまして。
あちきに、その顔を良く見せてくんなまし。
今宵もお会い出来て嬉しいでありんす。
あちきは、女郎でありんす故。
手が、震える。
「!」
「ぐっ……!」
静寂が破られ、オレは背中を何者かに追突された。床を転がり、何が起きたのかわからず一瞬呆けてしまう。
「、大丈夫か?!」
とても聞き覚えのある声だ。
「八左ヱ門様……あちきは平気でおす」
八左ヱ門。その名前を、どうしてここで聞く事になる?ここにいないはずの人間の名前を。
『そうか、良かった……』と呟く声がして、オレはとにかく立ち上がる。体勢は整えられたが、薄暗い中で相手の顔はまだ良くわからない。級友と同名の名前を持つ人間だっているはずだ。それなのに、強くあの名前が頭に響く。
「忍者が遊女を暗殺しようだなんて、いったいどういうつもりだ?」
しかし、その声は級友と同じ声だ。間違えるわけもない。
八左ヱ門らしき人物は、さんを自分の後ろに隠し庇っている。さんは相手の袖を握ってこちらの様子を窺っていた。さんが信頼を寄せているのは明らかで、腹の奥で熱が沸々と高まり沸騰してしまいそうになる。肩が震えた。
そこに自分がいない。さんの傍に、オレがいない。
男はオレの思考が鈍っていると悟ったのか、オレの胸倉を掴んだ。オレも意識を集中させようとしたが、一瞬遅れて床に叩きつけられた。身体の中が浮き上がるような気持ちの悪い感覚が支配する。息が詰まって苦しい。
「止めておくんなんし!!」
男が馬乗りになったとき、さんの叫び声が部屋に響いた。初めて聞いた悲鳴のような叫びだった。さんは男の腕に縋り付くようにして制止している。
「え……?」
薄闇の中で、月の光が差し込んでくる。白い光に照らし出されたのは、級友の姿―――あの日オレを力いっぱい殴った八左ヱ門の、驚きと悲痛に歪んだ顔。
「どうして、兵助が……!?」
オレが聞きたいと言い返す代わりに、唇をきつくきつく噛み締めた。