久々知編5


遊廓の朝は早い。営業は夜からだが、朝6時には皆起き出している。店の中では妓夫や禿たちが忙しく掃除や洗濯、食事の支度に取り掛かり、女郎たちの世話をする。新造は禿げ支度をしてやった後で朝食を軽く済ませ、芸事を学ぶために各自の師匠の元へ行くのだ。
の部屋で、ある新造が三味線を演奏していた。まだ拙い音色だったが、は目を閉じて聴き入る。新造も集中して自分が持つ最大限の腕前を披露した。
音色がピタリと止み、それに続いてが瞳を開く。目の前に三味線を構えた新造は、緊張のせいかきゅっと口元を結んでいる。まだ引き慣れない紅が鮮やかだった。

「あちきの……、どうでしたかえ?」
えらい上手でありんしたよ。前より音色が素直になりんしたえ
「まことでありんすか?!」

新造はパッと花が咲いたように笑顔になった。嬉しそうな新造に、も微笑みを浮かべる。

でも、もう僅か姿勢を良くして、指が引っかかりんせんようにしないとダメでありんす。こなたのまんまお稽古を続けていけば、きっと出来るようになりんすよ。頑張ってくんなまし
「あい、わかりんした。ご指導、ありがとうおざんす!」

この新造は、遣手に芸事が上手くならないとこっぴどく叱られたばかりだった。遣手は女郎たちの監視や監督をしているため、その遣手に睨まれるのはたまったものではない。
三つ指ついて、新造は重くまとめ上げた頭を垂れた。そして三味線を急いで片付け始める。

姐さん、今お茶を淹れてきんす。僅かお待ちくんなまし
気にしなくてもいいでありんすえ。 あちきで淹れんすから

はいつも飲んでいる茶筒を手に取った。茶筒には蒔絵の美しい牡丹が描かれている。新造では手が出せないような代物だ。
新造はその茶筒の美しさに目を輝かせながら、首を横に振った。

そんな事、姐さんにさせられんせん!あちきが淹れんす。いつなるときも、お世話になってありんすのでありんすから
「ふふっ……それでは、お言葉に甘えさせてもらいんすね
「あい!
直ぐにお持ち致しんす!

新造はから恭しく茶筒を受け取ると、部屋を後にした。それからしばらくしての部屋に再び戻って来た。立ったまま、片手で器用に戸を開ける。新造が持つお盆の上には、柔らかい新緑の香りを漂わせる湯呑みが乗っていた。

「お待たせ致しんした。どうぞ」
「あい、ありがとうおざんす」

飲む前に、はお茶の香りを楽しんだ。ふんわりと香る緑茶の香りは、心にすっと染み入るようだった。長い睫毛を伏せて香りを楽しむの姿は、あまりに優美で、新造は見惚れてしまう。ここが遊廓でなかったら、きっとどこかの貴族の姫君に映っていただろう。
そんな視線に気づき、は瞳を開いて新造を見つめた。

「どうかしんしたかえ?」
「あ?!その……、姐さんが綺麗で、つい見惚れてしまいんした」
「そうでおすか?」
「そうでおす!姐さんはすごく綺麗で、優しいでおす。あちきの姐さんはお稽古見てくれんせん。それに、見てくれたとしても、他の先生たちみたいにあちきを直ぐにぶちます……」

位のある女郎たちは、禿や新造に女郎としての指導を行う。だが、それは決して優しいものじゃない。姐女郎の機嫌を損ねると、暴力を振るわれたり嫌がらせを受けるのだ。禿や新造は理不尽な扱いを受けても、黙って耐えなければならない。それがこの遊廓のしきたりだからだ。自分よりも立場が上の人間には、決して逆らえない。

「こうして姐さんに内緒で教えてもらっているときが、1番楽しいです。あちきみたいなのにも、色々教えてくださりんす故」

新造は悲しそうに俯いた。この新造は見世で生まれたのではなく、外から売られてきた娘だ。外の世界を知っている分だけ、辛さが増すのだろう。
は少し困ったように言う。

「あちきは……、そんな大層な事をしているつもりはありんせんよ」」
「そんな事ありんせん!あちきら新造は、皆姐さんの事を慕っておりんす」

熱弁していた新造だったが、ふと疑問を口にした。

「ところで、姐さんはどこで芸事を身に付けたんですか?親父様は、もうここに来たときから芸事を身につけていたと……。それに、お作法も他の女郎とは違いんすなぁ」

武家や貴族の家で育った娘ならば、一度戸の前で座ってから片側の戸を静かに開く。しかし、遊女たちは先ほどの新造のように、戸を立ったまま開ける。しかも、両手で正面から開くのだ。これは位の高い花魁たちも同様で、遊廓特有の仕草だ。
しかし、は違う。武家や貴族の作法と同じく、戸は一度座ってからそっと静かに片側だけ開くのだ。
は新造の質問に無言で微笑みを浮かべるだけだった。その様子にハッとして、新造は非礼を詫びた。

「ご、ごめんなんし……!女郎に御郷を聞くのはご法度でありんしたね……!」

遊廓の女郎は、出身地を知られないように独特の廓言葉を使っている。決して客に自分の出身地を明かす事は無い。
は新造の失態を特に気にしていない様子で、『気にしていないでありんすよ』と軽く返した。新造はその寛大な態度のに対して、平伏すように頭を下げた。
だが、新造の疑問がこれで消えたわけではない。の存在は、この華屋でも異質である。華屋の女郎たちも、他の女郎屋と同じで売られてくる娘ばかりだ。もしくはこの遊廓で生まれた女郎の子である。だが、は自らの意思で華屋へ身を置いたという話が囁かれている。金に困った娘が自分で身売りをしに来る事はある。けれどもがここへ来た当時の姿は、優美で繊細な着物だったという。とても経済的な苦しさが理由とは思えないのだ。
芸事にも秀で、大名の姫にも劣らない教養を身につけている。そしてこの美しさだ。しっとりとした黒曜石の瞳に見つめられて、男が浮足立たないはずがない。女である新造自身も、の姿には惚れ惚れしてしまう。そんなに陰口を叩く女郎や、阿婆擦れだと罵る客もいたが、この新造のように慕う者も多い。

(散茶の位にいるようなお方ではないというのに……)

はの位は散茶女郎だ。これほどの役不足はないだろう。太夫にも劣らない教養と美貌を持っているは、少なくても花魁以上だと信じて疑わない。

(おっかさんと親父様は何を考えているんだか……。あちきもいつか、姐さんみたいな人になりたいでおす)

新造ははたと視線がとぶつかり、ようやくまた見つめてしまっていた事に気づいて顔を赤くした。初々しい新造の様子に、はくすりと笑いを零した。

「申し訳ありんせん……っ!」
「可愛いでおすなぁ」
「その、姐さんみたいにいつかなれたらと思っておりんした……」
「あちきに?」
「そうでおす。あちきにとって、姐さんは憧れの人でございんす!綺麗で、優しくて、気品があって……。姐さんは、誰よりも女らしい方でありんすえ」
「!?」
……姐さん……?」

は新造の言葉を聞いて、いつもは伏せがちの目を大きく見開いた。息を飲む音が聞こえてくるんじゃないかと思うほどだ。新造の声に反応出来ず、茫然としてしまっている。
心配になった新造は、の肩を叩いて揺らす。

姐さん!!」
「……っ」

小さく息を漏らして、が我に返った。目の前で心配そうに顔を覗き込んでいる新造に気付き、はさっきまでの顔が嘘のように再び笑みを見せる。

「僅か驚いただけでありんすえ。心配させてごめんなんし」
「それなら良いんですけれど……」

普段通りに戻ったに対して、新造はホッと息を吐いた。だが、は先ほどの新造の言葉が繰り返し聞こえていた。





姐さんは、誰よりも女らしい方でありんすえ。





「……どうしてあちきを女らしいと感じたのでありんすか?」
「え……?だって、姐さんは仕草もお顔立ちも優美で、見惚れてしまうんでありんす。あちきは、姐さんほど女らしい方を知りんせん。どうしたら姐さんみたいになれるのかって、思ってしまうほどでありんすえ
「………」

は暫くの間黙ってしまった。その表情は笑顔ではあったが、何か異様なものを感じて新造はごくりと喉を鳴らす。何か自分は気に触るような事を話してしまったのだろうかと、気が気じゃない。
やがては真っ赤な紅の口元を開いた。

「あちきの過去を知りたいのでありんすか?」
「え?!それは……」

知りたい。が、そんな事を口に出来る様な立場でもない。新造はぐっと唇を噛んだ。けれども、はくすっと小さく笑い、新造の疑問に答えを与える。

「あちきは、おわしに困っていたからここへ来たわけじゃありんせんよ。こなたの廓に身を置く女郎が欲しいと思う物は……、既に殆んど持っていたように思えんす」

女郎が欲している物とは、地位、金、そして自由の身であろう。
朧げにしか話さないの話でも、新造はしっかりと耳に入れているようだ。

「けんど、そこにはあちきの欲しい物は無かったのでありんす……」

の欲しい物がこの遊廓にはあると言いたげだった。しかし、新造には理解出来ない内容だった。この遊廓にある物と言えば、色欲のまま女を求める男たちと、巨万の富、そして遊廓でしか通用しない地位だけである。

「ま……こなたにも、あちきが欲しいものは結局見つかりんせんでしたなぁ」
「……姐さんは、いったい何が欲しいのでありんすか?」

は、目を細めるだけで新造の質問には答えなかった。しっとりとした笑みはどこか寂し気で、これ以上新造も問うつもりはなかった。
茶卓に置いた湯呑みをそっと掴み、再びは香りを楽しむ。そして、呟くようにこう切り出した。

「1つ、質問しても宜しいでありんすか?」
「へ?あ、あい、何でありんしょう?」
「人間には、男子と女子の2つ以外に……、何が存在すると思いんすか?」
「男子と女子の……?」

突然の質問に、新造は戸惑うばかりだ。何をいったい聞きたいのかも良く理解出来ず、新造は頭を抱えてしまう。それでもはじっと新造の答えを待っていた。新造もここは素直に思った通りを答えるべきと判断し、おずおずと口を開いた。

「男子と女子以外となれば……、人間じゃない、という事ではありんせんか?」
「人、ではない……」
「あい。例えばでありんすが……、物の怪とか……」

新造は、自分でもこう言いながら何を言っているのかわからなくなってきた。人間じゃないとすれば、妖怪くらいしか思いつかなかったのである。
は新造の答えを聞いて、ただぼんやりと緑茶の濃くなっているところを見つめていた。しんと部屋が静寂に包まれる。

姐さん……?」

再び黙り込んでしまったを新造が呼ぶと、は今度こそ悲しそうに笑った。










あちきは……、物の怪だったのでありんすね










こくりと喉を通り過ぎたお茶は、妙に熱く苦く感じた。





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