僕がその天女と出会ったのは、確か10歳になったばかりの頃。桜が1番綺麗なときだった。
遊郭というのはお金持ちの人が行くところで、ある人は汚らわしい、またある人は色欲に満ちた場所だと言う。ようするに、あまり評判の良い場所ではないという事。
まだ小さかった僕には、なぜ皆が嫌うのかわからなかったけれど、ただ怖いところなんだと思っていた。
そんなある晩、僕は父さんの仕事で遊郭へ行く事になった。いったいどんな怖いところなんだろうと怯えていたのに、そんな気持ちは吹き飛んでしまった。
「う……わああああ!!」
真っ赤な大門を潜ると、そこは別世界。思わず僕の口から驚きと感動の声が漏れ、目をキラキラと輝かせた。
道の両端にずらりと並んだ見世。その屋根を赤い珠のような提灯がぶら下がり、通りを美しくも艶やかに照らしている。店を覗くと、べっ甲や金の簪を挿した煌びやかな衣装の女郎たちが、格子の向こうで手招きをしている。町で見かける女の人とは全く違う雰囲気を持つ、女郎達。僕には汚いどころか美しいものに見えた。
「タカ丸、こっちだ。逸れたりするんじゃない」
「あ、はい!父さん!」
荷物を持っていない方の手を父さんに掴まれ、ようやく僕の意識は現実へと戻る。父さんに手を引かれ、到着したのは大輪の牡丹が描かれた暖簾の見世だった。その暖簾はどこの見世より立派で大きく見えた。
「あら、幸隆さんじゃありませんか。こんばんは、良く来てくれましたね」
「こんばんは」
店番のお姉さんが、父さんを見るなりパッと明るく笑って見世の中へ案内してくれた。
僕の存在に気がついたお姉さんは、僕の顔を屈んで覗きこんだ。
「まぁ可愛い子。この子は幸隆さんの息子さんですね?」
「はい!僕、斎藤タカ丸って言います」
「元気の良い子だね」
僕が挨拶をすると、お姉さんは優しく頭を撫でてくれた。
この見世―――華屋の中もまた別世界みたいに綺麗だった。歩いている女の人達は皆美しく着飾って、部屋からは三味線た琴の心地良い音が響いている。どこを歩いても金の蒔絵の天井や襖が見え、品の良い香が漂う。
この場所のいったいどこが怖いんだろう?どうして皆嫌いなんだろう?そんな疑問が浮かんでくる。
「タカ丸、私は楼主にご挨拶をしてくる。その辺で待っていなさい」
「はい、父さん」
父さんはお姉さんに案内されて奥の部屋に消えて行った。僕は父さんの言いつけ通りおとなしく柱に背中を預けながら待っていた。
ぼんやりとしていた僕は気付かなかった。直ぐ近くに怖いものがいるなんて。
「おっ、こんなところに禿がいんなぁ?」
「え?」
うっとりとする花の香に紛れ、酔っ払いの臭いに僕は気付いて振り返った。鼻を中心に顔を赤く染めた豪商と思われる男が、千鳥足で僕の腕を掴む。強い力で引っ張られれてしまい、僕は男の人の体にぶつかってしまう。
「痛っ!?」
「うぅ〜〜ん、お前は女子じゃなくて男子か」
「ひっ?!」
僕の顎をごつごつした指が掴み、無理やり上に向かされた。お酒で充血した目が気持ち悪くて、僕はただ目を逸らすのに必死だった。臭い息を吹きかけられ、涙が出そうになった。
男は厭らしい笑みを浮かべながら僕に言う。
「女子じゃないにしても可愛い顔してるじゃねぇか。この見世は陰間も置いていたとはなぁ」
「か……げ、ま?」
「ガキ、オレの酌をしてもらうぞ。こっちへ来い!」
「僕はっ、そんな事出来な―――」
「お待ちくんなまし」
恐怖で埋め尽くされた空気に凛とした声が響いた。僕が視線を向けると、廊下の真ん中に他の女郎よりも一際綺麗な女の子が立っていた。僕よりも年上で、十代半ばといった感じの子だ。男の人に全く怯まず、小さなほくろのある口元を上げて薄く笑みを浮かべている。猫のように釣り上った目が僕を捉えると、優雅な仕草でこちらに近づいて来た。僕を掴んでいた男は女の子の姿に見惚れているみたいで、いつの間にか手を放していた。
「な、何だよてめぇは」
そうは言うものの、先ほどの勢いは消えている。
「あ……あの……」
僕が何か言う間に女の子はサッと僕の手を優しく取って背中に隠した。着物から花の良い香りがして、緊張していた心が解れていくのを感じた。
男の人と対峙した女の子は微笑みを崩さずに口を開いた。
「こなたの子は見世の子ではありんせん。髪結いさんの子でありんすえ。 手を出してはいけんせんよ」
「ふん!そうかよ……」
すると男の人は女の子を頭から爪先までじっくりと眺めると、再び厭らしい笑みを見せた。
「おい、だったらお前がオレの相手をしろよ」
「はい、わかりんした。どうか先に行って待っていてくんなまし」
「くくっ……、今夜は上物が手に入ったもんだぜ」
男の人はそう満足そうに呟くと、宴会の音が聞こえる方へ行ってしまった。僕はハッとして女の子の着物の裾を引っ張った。女の子は子供の僕がドキッとするくらい艶やかな笑顔を見せている。
「何でありんしょう?」
「たっ助けてくれて、ありがとうございました!」
「気にしなくても良んでありんす。それでは、あちきはさっきのお大尽様の相手をしてきんす」
「えっ?あ、う、あの!」
しゃらん、という簪の音が響いてこんもりとした睫毛がまた僕を捉えた。
「名前を……教えてください」
もじもじしながらそうお願いすると、女の子はとびきりの笑顔で真っ赤な唇を動かした。
「、と申しんす」
「そういいますれば、そんな事もありんしたえ」
姐さんの髪を梳いていると、姐さんはクスクスと小さく笑った。
「あの頃のタカ丸様は、女子のように愛らしいお姿でありんした」
「そうだったかなぁ?僕はそんな事無いと思うけれど」
「ふふ……。それではそういう事にしておきんしょう」
「相変わらずだね、姐さんは」
「そうでおすか」
「そうだよ」
姐さんは相変わらず良く笑う。それは美しいし、見ていて幸せな気持ちにさせてくれるものだ。でも、その笑顔は時々心配になる。
あの時だってそうだ。僕はまだ小さくて何も知らなかったけれど、姐さんはあの男の人に抱かれたんだ。あの男の人は女郎を酷く扱うって言われていて、姐さんだって知らないはず無かったのに。姐さんにその事を聞いても、きっと笑うだけなんだろうけど。
「タカ丸様は少しばかり見ない内に大きくなりんしたえ」
「姐さんに最後に会ったのは12歳の頃だからね」
多感な時を迎えた僕は、やがて遊郭の仕事に連れて行ってもらえなくなった。姐さんはまだ下手だった僕に自分の髪を結わせてくれた。つまり姐さんは僕の最初のお客さん。初めて結った髪は父さんほど上手く出来なかったけれど、姐さんは顔を綻ばせて何度も『ほんに、ありがとうおざんす』と、にっこり笑ってくれた。
「姐さんが僕をここへ呼ぶなんて初めてだよね。文を貰って驚いたよ」
「久しぶりにタカ丸様のお顔を見たくなったのでありんす」
姐さんは磨き抜かれた丸い鏡越しにそう言った。
姐さんは人気の女郎だけあって、僕の欲しい言葉や表情を見せてくれる。だからこそ心配なんだ。
「姐さんは、僕が忍術学園に編入した事……、知ってるんだよね?」
僕が静かに問いかければ案の定、『あい』と短い返事をする姐さん。
「幸隆様がこの前いらっしゃったんでおす」
「父さんが喋ったの?」
「あちきにはと、お口止めされていたんですかえ」
「あ……」
気まずくなって僕は口籠った。
姐さんには知られたくなかった。だって、姐さんには父さんの後を継いで立派な髪結いになるって伝えていたから。姐さんもそれを賛成してくれていた。
そんなつもりは無かった。でも、僕は姐さんを裏切ったように思えて、胸が苦しい。忍術を学びたいという気持ちは嘘じゃないけれど、忍者は暗殺も行う過酷な職業だ。姐さんに限らず反対する人は多いだろう。
居心地の悪い沈黙が少し続いたが、やがて姐さんは優しい口調で僕に語りかけた。
「あちきが反対すると思っていんしたかえ?」
姐さんの天女みたいな顔が直ぐ傍にまで迫っていた。赤い目尻が細くなって、自分の事をじっと見つめてくる。僕の頬が熱くなった。
姐さんは滑々した手を僕の頬に当てた。
「あちきはぬしのお姉さんではありんせんし、女郎の戯言なんて気にしないでくんなまし。それに、あちきは反対なんてしんせん」
僕は、綺麗でいつも笑っている優しい姐さんが好きだ。でも、今の姐さんは好きじゃない。
「姐さん……それじゃ反対されるよりも辛いよ。姐さんは僕と血が繋がっているわけじゃないし、家族とかそういうのじゃないけれど……、僕は姐さんの事を本当の姉さんみたいに想っているから」
自分で言っていて何だか目頭が熱くなってきた。こんなところで泣いたら、これから忍者を目指す者として失格なんじゃないかと思う。慕っている人に他人扱いをされて泣くなんてすごく子供っぽい。嫌になる。
姐さんは今にも泣き出しそうな僕を見てクスクス笑い出した。
「まぁ、奇遇でありんすね。あちきもぬしを弟のように想っていんすよ」
「本当に?!」
姐さんの一言で涙は一気に引っ込んでしまった。
僕の頬は姐さんの両手に優しく包まれた。しっとりと温かい感触が心地良い。
「手数問題でありんすね」
「難しい……?」
思わず聞き返してしまった。だって、姐さんはどんな事でも今みたいな優しい笑顔を浮かべながら何でもこなしてしまう。そんな姐さんが『難しい』だなんて。
「あちきは、女郎としてお大尽様が求めているものを与えなくてはなりんせん。けんど、それではタカ丸様は嫌でありんしょう?」
女郎として忍者になる事を賛同するか、弟を諌める姉のように接するべきか。
姐さんは困っているのに僕は嬉しいという気持ちになってしまう。女郎と常に接してきた姐さんが、そうではない目で僕を見てくれようとしている。
僕は頬に触っている姐さんの左手に自分の手を重ねた。
「姐さん、僕はお客さんじゃないよ。弟でもないけれど、今日僕は姐さんの髪を結いに来た。だから今日お客さんなのは姐さんの方だよ」
僕がそう言うと、姐さんは綺麗な猫目を大きく見開いて、それから小さい子みたいに頬を赤く染めてにっこり笑った。紅に彩られた唇が弧を描く。
「タカ丸様は、髪結いになるのだとばかり思っていんしたので、最初に聞いたときは驚きんした」
「うん、僕も忍者の家系だって知るまではそう思ってた」
「忍びになるのは、あまりに危険でありんすえ」
「うん、わかってる」
僕は真っ直ぐ姐さんを見つめながら返事をした。
髪結いとは全く違う職業であり、時に命の危険もある忍者……。でも僕は忍者の道を進みたいと思った。反対されたくはないけれど、反対されても仕方がない。
姐さんは睫毛を一度伏せ、『そうでおすか』と呟いた。
「あちきは、タカ丸様を止めたりしんせん。主様は、忍びがどんなに過酷であるかを理解していんすのでありんすから。それを知っても尚、御心が定められてありんすのであれば、あちきは主様の背中を押して差し上げるまででおすえ」
「姐さん……!!」
ぎゅっと心のままに姐さんを抱きしめると、真黒な髪が踊る。姐さんは僕の背中に細い腕を回し撫でてくれた。
「忍術学園は寮でありんしょう?会えなくなるのは寂しいでありんすね」
「そんな事無いよ。休みのときは顔を見せに来るから」
「それはいっそ嬉しいでありんす」
言葉通り、その後姐さんは僕が顔を見せに来る度に相談に乗ってくれた。迷っている僕の背中をそっと押してくれる姐さんの笑顔はいつも優しい。
いつか、姐さんの持つ大きな闇を消してくれる人が現れれば良い。
それはきっと僕ではないんだろうけれど、僕は姐さんの幸せを願っている。